見出し画像

Vengeance and Furious anger those who attempt to poison and destroy, my bro

パルプフィクションの永野の説明を見ていろんなことを思った。ヘッダ画像をお借りしています。

クエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』は、映画史において重要な位置を占めてるらしい。革新的なストーリーテリングで観客を魅了している。見た当時(数ヶ月前)も書いたけどこの映画は、岸本斉史ががちがちに好きだったという話が印象に残っていて、話作りを勉強するためにガチ目に分析したらしいので、そこまでかよ……と思いながら見たいみたいと思って黒人のゲイレイプシーンがあるからそりゃ見る機会ないわなと見終わった後理解したことがある。

複数のエピソードが絡み合う非線形の物語、強烈なキャラクター描写、そしてポップカルチャーへのオマージュが特徴らしいがそんなものは単なるいち成分に過ぎない。

でも永野は契機であり、やっぱどうしてもサミュエルエルジャクソンばかり見てしまっていた。ブルース・ウィリスやサタデーナイトフィーバーの人とかよりもだ。

マジでサミュエルの映画って感じだった。ガチで永野はそんなこと一切言ってなかったのでマジで契機でしかなかった……

ぼくは一度みた映画をめっっっっっっっちゃ時が経たないと見れないんだけど、なんとなくオープニングが聴きたくなった。これはベンチャーズのカモフラみたいな言い方を永野がしていたことに影響されてるかもしれない。

*

『パルプ・フィクション』を見るとき、ぼくはどうしてもサミュエル・L・ジャクソンの演技に注目してしまう。

ジュールズ・ウィンフィールドは、聖書の一節を引用しながら冷酷に任務を遂行するヒットマンで、カリスマ性と独特のユーモアが映画全体を引き締めているとか言われてるらしいが単なる罪悪感に苛まれた小心者だ。2回目に気がついた。2回目ってちゃんと見てないんですけど

ジュールズの存在感は、ブルース・ウィリスやジョン・トラボルタを凌駕しているのがぼくの中では確かで、でも全員鳴り物入りでドガーと出てきて結局ちっぽけなんだけど、ってことを象徴する連中だと思うんだけどジュールズだけずっと格好いい。

つまりはやくざ家業だから常に人殺しをして生きている。罪悪感がないわけないでしょ?神にでもなったつもりか?と。自問自答していたはずだ。

それでも毎日金を返さないやつだの薬漬けになるだけなって逃げる奴だのを見つけてぶっ殺さないといけない。仕方ない。心を殺せ、と。

そこで神の言葉を引用するようになった。到来、人様の命なんて奪える存在などこの世にはいない。でも俺はそれで生きている。じゃあ俺は何だ?神とでも思わないと生きていけない。

つまり罪悪感の封じ込めこそがジュールズの聖書を読む行為であり、パルプフィクションとは便所で読むようなクソ雑誌であり、そんな雑誌を読んでたベガは無惨にぶっ殺され、クソ意味不明な麻薬常習者みたいな(実際麻薬常習者だった)人生を送り、終わらせるとこを視聴者にさんざ披露して消える。時系列が壊れてる映画なので最後までいるんだけど。

パルプフィクションに関わらない生き方をしていたジュールズは皮肉なことに神の存在にマジで気づいてしまう。神様は本当にいるんだ!などというカトリック映画をタランティーノが造るわけないので、つまりはジュールズは主役ではないのだ。ジュールズもまた、踊らされているだけのアホとして徹頭徹尾書かれている。でもぼくは絶対にそう受け取らないようにした。ジュールズの信念生き方佇まいすべてが完璧であると信奉する。

という話をまた次回に

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?