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月ノさんのノート26ページ「肯定」

前回

「撮影機材」という、手段としてのメディア(手足のように機能し、表現に関わるという意味合いにおけるメディア)が果たす役割は、思い出すための証明書を発行することであるように考えました。

続き

「思い出す」と「証明書」が意味的に噛み合って居ない気がしますが、記憶は薄れるという前提で考えたとします。証明書(ex:写真)から何らかの喚起があり、自分の「おぼろげな記憶とも呼べなさそうな脳の残滓を一気に100%肯定してくれるもの」を正しい記憶として蘇らせてくれるという意味で証明と言いたかった。

「これはわてくせが高校3年の夏に甲子園出場を決めた時のお話なんですけど」とご本人もよく言っています(一度も言ったことはありません)。

ここまで肯定・証明という言葉を使いましたが、思い出って浅い意味での自己肯定ですよね。例示したように、確かにそこに居たという証明等。

それなら例えば、自分を肯定する物資がない場所、あるいは自分を肯定する物資を気楽に設置することは許されない場所に人は帰巣本能や思い出を託せないのでしょうか。あるいは切りがない理想本能的な考え方になってしまうかも知れませんが、本当は自分はこんなものじゃない、今いる場所は自分の居るべき場所ではない、ここではない何処かにある場所がきっと自分にとって相応しく、正しい……のような深層心理が仮にその人の中にあったとして、その心理状況は現状をことごとく否定してしまうのか。

例えば明確に挑みたいことなんかがあって、それを達成するにはシチリアに住まなきゃならないな、みたいに執るべき手段が予測可能だったりはっきりしている場合ならば、あるいは否定という形ではなく現状を極めて限定的なものでると思い込み、その思考が頭の中を専有してしまうのかも知れない。

本題外

あと単純にこの本に限った話ではなく「エッセイなのに結論がなければならないって大変だろうなあ」と思わされました。

ぼくは商業/非商業問わずエッセイに結論を求めていないといいますか、敢えて求めないようにするほうが楽しいのでそうする傾向がある。

のですが、物語では無い代わりに結論のような落とし所を設置することで、前回述べたような何らかの教訓が得られる可能性が高まる。つまり上質な読後感を消費者に与えられる。教訓ほどに読後感として質が高いものをぼくは知らない。

「好きな作者の本だから別に何が書かれてたって面白いに決まってるよなー、何が書かれてても受け入れる自信あるし」という発売前の本に対して読者が抱いている思いも、作者からしてみたらハードル激上がり宣言と受け取れてしまったり、より自分を戒める感傷を呼ぶきっかけとなってしまうかも知れない。

筆者や現場の匙加減ひとつで、なんとなく決まることに過ぎないのかも知れませんが……

わたくしだけが怖い現象

ところで「読み切ってしまうのが怖い」というような「他の人からは大したことじゃないけど自分だけが怖い現象」みたいなものは、普段から彼女本人が折に触れて話している「わたくしだけが怖い現象」みたいな考え方と集合エリアがある部分において交差する可能性が存在すると考えるのは浅薄な行為でしょうか。

わたくしだけが怖い現象の例として、寝るのが怖いというものが挙げられます。

ごく最近(1~2月)のYouTubeチャンネルLIVEストリームで話していましたが、概要を説明すると「寝た時に意識が全消えするのって、例え瞬間的なものであったとしても自分がそこからまるまるいなくなるってことで怖い」みたいなこと(このnoteの構成上どこでどうだったみたいなことが書きづらいのですが、他にもある場所で述べられていますね)だったと思います。

ほかにも、

という現象があるようで、いずれも「説明されれば何が怖いのかわかる=怖さの意味に筋が通っている」という点で理解できなくはない。

当該現象のどこに意識を向けるか、どの部分をピックアップして重点的に着眼点を置くかの違いであり個々の生い立ちや趣味趣向により大いに変化するようにも思える。

個性であるため何かと比べる必要なんてなく、肯定も否定も必要ない。しかしながらはっきりと「怖い」という負の感情に支配される結果を産んでしまう。

行動心理学的な見地から同種のパターンが見いだせるかもしれないですが、ぼくはいかんせん行動心理学について何の知見もないため、また何か思いついてら、本の続きを読め得たら、違う見地から近いうちに本文のさらに続きみたいな形で書けたらいいのかなぁと思っています。

先に挙げた寝る時の例はカリギュラ効果みたいなものと言って良いのでしょうか。

考えるべきではない、と思った瞬間からもうそのこと以外考えられなくなるというものです。ともすればひねくれ者とか逆なことがしたい天の邪鬼なだけでしょう、みたいな指摘をされてしまいそうですが、自分が我慢すれば一切起きなくなるというわけでもなく、我慢した瞬間にもうそれは頭ん中に表出してしまうので絶対に避けようがなく……自制心が効かない領域について語るのは専門家だけであるべきかも知れない。

ここまで書いて思ったのですが、そういうことが軽くでも先のページに書いてあったら面白そう……なのですが流石に思い上がりが甚だしいと言いますかぼくが思いつくようなことは書かれていないようにも思えるため、またいつか先のページに進む日が来ることを胸に生き続けられたらと思います。

後記

エッセイを書くのに話題がなくてどうしようと思った時に参考資料となるものって、案外自分のSNSをさかのぼりまくることだったりするのかも知れない。

それほど有意義なことが書いてある必要なんてなく、冒頭で述べたように「自分の思い出の残滓」に何らかの響鳴が与えられれば良いんです。

ただ折に触れて死にたくなるような事故が起こるかもしれません。過去の自分とはデジタルタトゥだからです。

過去の自分は現実にはもう存在しませんが、SNSの中にはしっかりと残っている。SNSは……バーチャル空間なのに現実についてのことだけが書かれている意味不明な空間ですね。

お読みくださりありがとうございました。

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