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意味不明な片仮名ビジネス用語を連発する現場は正しいと言えるのか

ヘッダ画像をお借りしています。

リスクとかモチベーションとかすらいちいち英字で発音する必要があるでしょうか?とぼくは思っていました。コミットって最早なんだよ

今でも別に思わないわけでもない。それぞれ危険、とか動機、とか言えばいいだけでそのほうが初めての人にも伝わりやすいですよね(初めてとは?)。

ただ妙な日本語離れした用語をわざと飛び交わせることには何らかの意図があるんじゃないかなと思わなくもない。ジョインだのアサインだのよ

片仮名用語を使いまくる側に1mmも加担したいわけではありませんが、「どうかんがえてもめんどくせーのに、使っていることには何らかの理由があるんじゃないか」という推測を持ちました。

その何らかの理由が何らかのメリットなら、甘んじて享受することによって自分の生活の利便性を高めるために取り入れられたら、と思うことは生き物として自然なムーヴであるといえるでしょう。ムーヴってなんだよ

切り替え

ひとつの結論として「ばっきばきに妙な片仮名を使いまくることで脳を切り替えているのでは?」という考え方があります。

ここはビジネス会話をする場なんだから、「ビジネスの専門家」としてバコベコに専門用語=横文字、片仮名用語を使っていこうというもの。

ビジネスの専門家、とは言いましたがこれは本題の考え方を提示する上で便宜上ちょーっとだけ必要でしかない、本当にちょっとした定義であり、ビジネスの現場に好きで居ようが好きこのんで居なかろうが、その現場に居合わせた瞬間、誰でも「ビジネスの専門家」とされるでしょう。

つまり専門家となる要件は「どこかしらに就労していること」という1点だけで良いのだと考えられます。

営業の人、経理、事務、掃除の方だって八百屋だって水商売だって必要あってその場に居合わせたのなら「ビジネスの専門家」です。

書いてて思いましたが「『企業という形態を保つために提供された建物および準ずる現場』の中に合理的に居合わせている人々」なら誰でもそうといえそうですね。場合によってはその企業に所属していない、飛び込み営業に来た他社の人だってそうでしょう。

もはや面接に来た人とかだって「その状態になろうとしている人」なんだから要件を満たしているんじゃないか。就労の有無はどうでもいいのではないか。

ともあれ―――――つまり、ビジネスの現場はビジネスの専門家たちにとって日常生活から途端に「空気を切り替えねばならない場」であると認識される。

ビジネス服について

ところでぼくはそうは思っていません。

日常の延長、メタ次元で捉えるならば日常より下位層にビジネスの現場があるべきと思っています。

ただ、残念ながらそう思う人は少ない。何よりもビジネス・シーンは優先されてしまう。

極端な例えをするなら、シングルマザーが授業参観に出れなくて子供との不和を招いたり、休出の親父が小学生の子供の運動会に来れなくて信用を失う、あるいは土日にキャンプなりグランピングに行く約束が反故になり以下同文というもの。

ともあれぼく以外の人からすれば、それほどビジネスの現場とは崇め奉られる神聖な現場である。そう思わなければならない。

企業に属すということは足並みを揃えねばならない。

企業の使命とは、多様性ある人材を受け容れて、全く平準化されたつまらない人間を生み出すことだったのか?

ぼくは捩じ曲がっているため、断固として金の受け取りが発生する場を下賎ではないとしたいがために、大人たちは上手いこと「神聖」というオブラートにビジネスの現場を包んでいるんじゃないの?と思ったことがあります。

金銭授受行為が下劣にならないようにビジネスの現場を”頑張って”神聖と扱っているように見えてしまうということ。別にどなたも神聖なんて言っていないのに酷い風評被害ですね。

みたいなことをまた次回も考えます。

お読みくださりありがとうございました。

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