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「ADHDだけど世界救ってみた剣についてw」とは

これはぼくが思うエブリシングエブリウェアオールアットワンスの邦題なのだが、全くADHDをばかにするわけじゃない弁明を含めながら説明したい。ヘッダ画像をお借りしています。

~ってみた、とか、~けんについて、とか忌み嫌ってるんですけど(誰がそんなことしてくれなんて頼んだのだろう?)、それぐらいのソフトタッチでないと日本に……といいますか監督のダニエルズの考えたテーマは伝わりづらいような気がしました。剣とは誤字ったけど、カンフー映画なので剣は拳でありエブリン自身を示しているのだろう……

というのも、ぼくを含め……ADHDありき、という形だと物事についてあまりにも先入観がはたらきがちになってしまうのではないかと。ダニエルズが考えたこの映画のテーマとは、ADHDへの理解を深める的なことだったように思えた。

その考えに至るまでにいくつかの感想を読んだが、一番参考になったのはこのサイトの中にある、ネタバレ考察、みたいな見出しのノートだったと思います。ここに引用してしまうと相手にそれが伝わってしまうので恥ずかしくて出来ないが許していただけたら

ぼくはエブリシングエブリウェア~について、ADHDを抱えたヒロインが世界を救う、というようにこの通り理解しました。だけどそれを映画配信サイトとかの見出しに据えてしまうと、「ADHDか……重いテーマだな」と感じて離脱してしまう視聴者が増えてしまう気がする。この映画でもそれを踏まえ、パンフで書くにとどめたのではないだろうか……と。

果たしてヒロインのエブリンはADHDなんだけど、彼女の抱えた環境、といいますか五感……特に視界的なものは、この映画の中で散見するあのクソ早送りな感じ(マルチバースを旅してるあれ)に映ったりしてるんじゃないかと。つまりエブリンは普段抱えたADHDと同時に、無理やりマルチバースを行き来するさまを、ADHDの人が抱える疾患と似た感じで体験したのかも知れない。

普段からADHDの視界に慣れているヒロインだったからこそ、この情報量が次から次へと流れ込み、普通であれば何について考えればよいのかもわからない(=だから、ADHDの人とは適切な文脈建てができずに、Aについて話していたのにいきなりBに話が飛んでしまったりするらしい)マルチバースだけど、その過程を受け入れやすかった。その下地があった。いつもと同じやんけ、みたいな。

しかしながらぼくはパンフを読んでいないので、コインランドリーのエブリン以外もADHDだったのかについてはわからない。しかしながら素地がランドリーエブリンなのであれば……あまり関係ないだろうか。映画とパンフがにこいちだった?

つまりシェフ型エブリン、ピザ屋の広告を持たされブリン、異世界リン、ミシェル・ヨーリン、岩リンなどについてもADHDだったのかどうかについては、ランドリーブリンが勝手にアクセスしにくるからどっちでもいいよ、的な考え方である。

果たしてADHDを抱えて、こんなにも厄介なことを同時に片付けられるわけもなく戦うことになり、「ひとまずは(このひとまずは、というのもある程度鍵なような気がする。順序立てて何かをしましょう、という)」世界を救うことになる。相手は多重世界の中にいる娘だった。

自分は自分であらゆる多重世界の中でも最強に君臨する人っぽかったけど、その線対称的な位置によりによって娘が来ることになってしまった。ADHDの自分の「被害」を一身に受けてきた娘はその報いを親に返すときが来たのだ、とも受け取れる。

こう見ると、ぼくらもどこかしらADHDっぽいところがあるんじゃないか?という気持ちになってくる。僕の周りにもADHDの人がいる。昔だったら堂々と自分がそうですなんて言えなかったのではないだろうか。

何より監督のダニエルズのひとり(ドMのカンフーで尻をしばかれてた人だろうか?)が、映画造りを進めるうちに、自分のADHD性に気づいて愕然としたらしい。このように現代ではADHDについての研究が進んだことによりその知名度も高まり、定義の裾野が膨らみ、さらには斯様な映画の台頭によりADHDだってこう生きているんですよ、と理解が進む……のだろう。裾野が広がると一方、悪口みたいにADHDを使う向きもたぶんあるんだろうが、さすがにそれは論外だろう。劇中でも触れられていない。

劇中でキー・ホイ・クァンが言っていた。もう少しだけ優しければ、世界の物事はもう少しましに進むんじゃないかと。ADHDの人にだって優しくしてあげてくれ。とダニエルズが言っている気がする。


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