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海辺の孤独な国民のしもべ

ぼくは普段こういうことは書かないんだけど、生と死について考えるエントリを定期的に書いているため思ってしまった。ヘッダ画像をお借りしています。

ゼレンスキーが日本に、といいますか広島にいる。ゼレンスキーという字を当アカウント内で書いたのは初めてだ。別アカウントは別に持っていない。そういうことばっかり発するアカウントも持っていない。

プラットフォームの言論統制

またnote社はマジで何がしたいのか、北国の戦争が始まってからというもの「責任逃れラベル」を自動でnote著者の書いたページ上部に強制的に貼り付けるようになったため不信感が強い。

note社はユーザのホーム画面なり何なりに周知やお知らせ欄を持たないので、上記を事前通知なしでやっている。報道にも使えるメディアの管理者として割と凄まじい行為だ。

これは新型ウイルスの時もそうだった。多分北国の愚者の名前やウイルス名を文中に書くと、強制的に「真実は公的機関の目で確かめろ」みたいなラベルがこのページとかの最上部に置かれるわけです。そう(強制的に)書いておけば、どんなにnote内で歪んだ思想の持ち主がいかれた情報を発信してもそいつだけが悪いことになるのだろう。

これもあり、当該プラットフォーム内でそれらを書くことはもともと躊躇われる環境下にあったと思えます。これはぼくだけじゃなくて、すべてのnoteユーザがそうなんじゃないだろうか?ゆるゆる言論統制だ。

ゆるゆると称したのは、見た目程度の自由選択があるから。つまり「てめえらが独裁主義の国家や新型ウイルスについて書くのは勝手だが、お前らのnoteが真実とは限らないというレッテルは必ず貼り付けるからな。それでも書きたいなら書けやwwwwwwwあ他の話題を書くならそれ貼っつけねえけど?」と言われているのと同義だ。北国独裁国家とウイルスはnoteに持ち込んじゃいけないんでしょうね。なんなら独裁国家がそういうことしそうとすら思えます。

戦時下と被爆

それでもアウトプット程度しようと思ったのは序盤のそれと、直前にHEATというえげつない良質な出来の映画を観たからでした。HEATはデカと悪人がいて、その両者ともに感情移入できてどちらが主役なのかわからない造りになっている。これについてはまた別の機会に書きたい。ぼくは悪役のロバート・デ・ニーロではなく善のアル・パチーノに肩入れした。

このようにゼレンスキーの訪日はどっちの視点も理解できてしまうことに難しさがある。

唯一の戦争被害持続国である←→唯一の地球破壊爆弾被爆プリフェクチャーである

この構図に全社会が困っている。ぼくはどちらの主張も等しく貶さなければ支持しない。いやある意味支持していることにはなるのだろうか。

Ukraineは激烈な愚者のせいで人が人に殺され、広島の先祖たちはアメリカに実験半分で殺された。これは公然たる事実であり、事実に対する介入の余地がない。

そんな広島で、あまりに重い人の命が手軽に消え去った広島で、「別の国で今まさにあまりに重い人の命が消されつつあるから、それを止めるために金銭供与なりそれに準ずることを頼みに来た」、と国外の人に言われて広島市民は何を思うだろうか。

そしてその国外の人は広島市民に何を思うだろうか。しかし来日する意味とは、より一人でも多くのUkrainenを救う可能性を叩き出す以外にはない。自分の行動ひとつで何よりも重い人の命が救える可能性があるなら、来日など安いものだろう。

また来日に際して、北の愚者なんかが移動とかしているゼレンスキーを撃ち落とそうとして日本や日本近海に頭の病気めいた攻撃を仕掛けるのではないかと思った日本人もいたということを聞いたことがある。ぼくはその可能性について全く気づかなかった。当事者意識が消えていた。でもそんなこと起こるかな?とも思う。

つまり2者の当事者意識のどちらも割と正しいように思えてしまうところに問題の難しさがある。そもそも問題なのか?とも思う。事実がただそこに横たわっていて、ゼレンスキーはその機会を見出した。別に止める人がいなかったからした。

ぼくはこの文をして、戦いを始めたいとか誰かと議論したいとかは微塵も思っていない。この文から戦いを促したいみたいな意図が見て取れたんだとしたら、ちょっと義務教育あたりをやり直して欲しい。ぼくは今、何かしらのアウトプットが必要な気がしたから書いた。それはあまりにも重いアウトプットだったので、どうにかしてアウトしなければならない様相を帯びていただけだ。

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