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頭が平和なトイレおやじ

俳句欄だかなんだかに投稿された字を見て驚いた。ヘッダ画像をお借りしています。あと飲食をしながら観ないでくださいね。

当該俳句を見てぼくは、ハラスメントの土壌とは斯様にあっさりと醸成されるのだと考えた─────としてしまうと、昨日みたいに多様性をどうのという考えに反してしまうので言い方を変えるのだが、どのように変えるべきか答えが見つからない。

当該俳句では、トイレにまたがっていた時代を思い出し(洋式ではないということです)、さらにはそこで新聞まで読むという活力を郷愁していた。そこまでして新聞を読むとは時代に活力があったからだ、と俳句で表現したいらしい。言葉を失った。

まずトイレが座れるようになったことは人類にとってプラスでしかないと思うのだが、それをあの情けない形式の様式に戻した上で、そこで用をたし新聞を読むぐらいの胆力を見せてみろ、と。よほどこの時代に絶望しているのかも知れないが、そんなもの押し付けんなよとこの投稿者に言いたい。貴様の言う活力とやらで洋式のトイレが生まれ、その幸せ、効率感を享受できているからこそ、貴様だってそのような「子ども帰り」的思想を起こす余裕すら生まれる生活が送れているのではないのか?

あんたがどれだけ長い時間生きてるのかしれないが、もう少し尊敬できそうなことを言ってくれないか、と。時代に逆行したことを賛美する精神論でどこに息を吹き込もうというのか?昔の人は、俺達はこんなことまでやれてたんだ、今を生きる同じ人間のお前らにできないはずがない、という復習バイアスに罹っていやしないか?

世界が平和になり(平和じゃないけど……)、最新のテクノロジーが生み出したものは果たして快適な生活であったとともに、このような過去への無駄賛美親父をも生み出すことに貢献している。

言い方を変えよう。テクノロジーの発達に甘え、怠惰な人生を送るようになった知的生命体が増えたことを弊害とするのであれば、過去に異様な執着を起こすようになった高齢層を生んだこともまた弊害だ。この弊害とはゆとりある生活があるからこそ起きたのだということを忘れてはならない。情けなくてこちらが先祖返りしそうである。

このような醜態をして「それこそが平和なのである」と形容するのであれば、後は野となれ山となれという感じなんだけど。


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