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最後までゲームをクリアしたくならないのは「こと消費経済」が上手く作用しているから?

真面目に作業しながらゲーム耐久の実況みたいのを見て(聞いて)た時、えっ共感できるんだけど!!みたいな言葉が聴こえてきて手が止まることになります。

ヘッダ画像をお借りしています。

前書き

それはこちらでして……いわゆる鬼むずゲーをしかも二人プレイでクリアするというものだった。

ぼくはこのチャレンジを最初から(つまり一ヶ月ぐらい前から)見てたんですが、今日ついにクリアできたところだった。本当に難しくて、ぼくは流石に今日中のクリアはできないんじゃないかと舐めていました。

その理由として最後のボス的な相手(実際にはそれでも最後の一歩手前でしかない)が
「1~3のさいのめを寄越してきて、それを振って出た数だけ盤面を進む(それより大きい数は絶対に出ない)」
「一応狙って3ばかり出せばゴールに進みやすいけど、盤面自体がアクションゲーのステージになっていて、その最後にいるボスに勝たないとクリアにならず次のさいを振れない」
「奥までたどり着いても、ゴールのひとつ前にスタートに戻らされるこまがある」
「ゴールに着くとシームレスにそのさいの目を振らせてきた奴がボスになって襲いかかってきて初見殺し」
その他鬼畜


というような内容であり、こういった言い方をしては申し訳ないけどこの実況者たちの会話を聞いてるのが楽しいライブストリームと化していた。つまりいつまで経ってもクリアできそうにない。

前回のライブストリームでは、今ご説明したところで心が折れていた。ただ今回はマリンがさいの目操りを究極的にうまくなっていて、狙ったこまに泊まり無駄に接敵しないように(精神が削られないように)、回復とかを得られるようにしていて恐れ入りました。

かくしてそのステージをクリアして、本当の最後のボスにも「ふたりとも存命の状態で」勝って、遊んでいた二人は一気に気が緩むわけです。マリンに任せてしまう場面が多くなっていたフレアだったけど二人でクリアできてドラマチックだった。そして近況の話とかをする。

ゲームクリアするのがもったいない

近況の話ではいま遊んでいるゲーム、この後二人でどのように過ごすか、映画を見るなら何が良いか……みたいなことを話す。

その中でふたりともポケモンの最新で遊んでいることについて触れ合う。そこでマリンが「ゲームが終わりそうで遊べなくなってる(意訳)」みたいなことを言いました。

それがどういうことか説明が入ります。つまりもうこのゲームとお別れの時が近づいていることがわかるから、多分もうこの世界観がこれ以上拡張することがないから、その世界観から離れたくなくてクリアしたくない、というものでした。一緒に遊んでいたフレアも同調していて、映画でも似たような気持ちになる的な話になる。

そしてぼくも同調したわけです。ぼくはかなりのゲームでそれを味わってしまった気がする。ただアプリゲーやブラウザゲーではまったくそれがない。

後日追記:この現象について過去に思いを馳せていたことが思い出されました。なんてことだ(当ページ最下段で言及)

オンゲーはクリアするのがもったいなくない

それはアプリゲーとかの醍醐味(とはいってもゲーム提供側により一方的に醍醐味とされうるケースが多い)が時限イベントで、その期間を逃すと、その期間にしか設置されない特殊ステージで得られる何かしらのメリットが一切受けられないみたいに設定される事が多いからですね。

クリアしなきゃ恩恵がないんだから、クリアがもったいないなんて思っている場合じゃない。そして簡単にクリアされちゃうとせっかく予算をつぎ込んで創った限定ステージなのにDAUに貢献しなくなっちゃうから、クリアしづらい設計になる。つまり上記のようなカップヘッドぐらい難しい内容になる。

そんなステージにいちいち思い入れなんてわかない。だからさっさとクリアできるならそうするに決まってるし、ゲームに対する情緒なんて一切ない。あーさっさとクリアできてよかった、タイパ稼げた、として次の何かしらに時間を使うことになる。

でも読むだけでいいノベルゲーとかならそんなこともない気がするんだけど、いかんせんぼくが遊んだことなくてわからない。その場合も……なんとか録画とかして読めるようにできれば「もったいない」までいかない気がする。

こと消費こそが「もったいない」

ここに、こと消費ともの消費の差がある気がする。最初にあったコンシューマーゲームのクリアがもったいないのは思いっきりこと消費ですよね。体験を重要視している。

体験とは物事であり、商品という枠組みを良い意味で逸脱してしまい、ゲームという「物」で遊んでいるだけなのに、あるいは物の中にいながらにしてその体験が愛おしければ愛おしいほどその物から離れがたいという気持ちになる。

つまり、ゲームを有利に進めるために時間を金で買わせるモデルが市場を席巻しているオンライン系ゲームに対してこと消費の機会が巡りくる可能性が限りなく低くて、買い切り型の据え置きゲーには思いっきりこと消費型モデルの可能性が期待できることになる。そりゃそうでしょって言われてしまうかも知れませんが……

さらにはこと消費型のゲームにも追加課金の可能性がある点が面白い気がする。それはDLCの存在ですね。課金すれば追加シナリオかなんかでその世界観が少しだけ延長できますよ、みたいな「こと」なので、非公式にクリア後の世界を二次的に創作しあわなくても良くなってしまう。めちゃくちゃ強いコンセンサスを得て追加コンテンツに課金できる。

課金してお金を消費するだけじゃなくて、そのコンテンツを体験するために時間すら持ち込んで消費することに躊躇いがない。アプリゲーなんかだと「時間の取られ」が我慢できないから、時間を金で買う。

ゲームにおける"こと消費"が金+時間で得られるのに対して、もの消費は金だけが支払われて得られる。オンライン型、ブラウザ・アプリ型ゲームがこと消費型モデルとなるためには何が足りないのでしょう。あるいはなる必要がないのだろうか。

後で思い出したんだけど、この時も同じことを考えていた。つまりゲーム媒体に限らず書籍にも同じことを思った。映画は多分たった2時間で終わるから、そんな感情を抱いている暇がないのでしょう。でも映画を観る2時間はとても長いと感じることもある。この差はなんだろう?


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