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月ノさんのノート25ページ「証明」

ぼくはnote上でぽつぽつとそれまで自分が読んだ文献の感想を書かせてもらっていることがあり、今回書こうとしている「月ノさんのノート」もそのひとつです。たまに感想を書くことがある。

今回は2ページになりました。ご覧になりたい方にとって読まなくても大丈夫な前提が非常に長いのでお気をつけ下さい。

以前も発売当初、発売直前という時期に感想であったり想像のような内容を書かせていただきました。またその折にはすべて読んだ感想を書いたわけではなかった。探していただければ理由も書いておりますが、もったいなくて先が読めないみたいなものです。

ラストエリクサーが使いづらいからどうののような例えを当時もした気がします。ラストエリクサーとは何かしらの敵と戦うRPGに登場する消費道具で、自陣のすべての生命力を元通りにするという奥の手のようなもの。

↓飛ばすべき段落↓

めちゃくちゃ大げさに形容したいわけではないのですが、例えば「この映画を観終わってしまえば、この作者が世に発表したメディアについてすべて観てしまったことになる。近くか遠い未来に何か新しい企画を発表、リリースしてくれない限りこの人の創ったものを0から体験するという行為はかなわない」とか思ったことって無いでしょうか。あまりなさそうだとは思いますが……

この現象ですが、好きな系列の本だったり漫画だったら必ず起こるというわけでもなく、大抵は「ここまで読み切った。どういう終わり方をするのかが非常に気になるから最後まで必ず読み切る」みたいに好奇心が勝つことになります。おにめつとかそうでした。

最近漫画をあまり読んでいないのですが、ビースターズやチェンソーマンとかもでしたでしょうか……

普通は(当セクションにおいて普通という単語を使うことはぼくの中であまり適切ではないですが)場面転換によって感情の高低に強く影響を及ぼす物語性があるメディアであれば、はじめに述べたようなラストエリクサー的なことにはならないはず。欲が勝つからですね。

ここまで書いて思い出しましたが、げんしけん2もそうでした。ただあまりポジティブな感情からラストエリクサー化しているわけではなかった。そのため詳細は省くのですが、アフタヌーンでの連載が終わってしばらく経ってから買いました。そしてぼくはげんしけん1がかなり好きだった。

げんしけん2の終わりをまだ見届けていませんが(講談社特有の、例のオリジナルビニールを破ってすらいませんが)、氏が書いている続きの合唱漫画(題名を失念しましたが、仮に関連固有名詞により検索に載ってしまったとしてこのnoteに書いていることは当該漫画にとってそう有用なことではないため省きます)は新しく出次第買って読んでいます。

こうして自分を俯瞰して観ると、大きな熱狂の渦のさなかにあるわけではなく、また物語性が求められているわけではないものがラストエリクサー化しがちな傾向であるように思える。

という個人的な思いについての描写が過ぎるのでこの段落はスキップしていただくことを推奨しました。

↑ここまでスキップ推奨↑

書籍に限ったことではないですが、お金を出して買った―――活字・映像その他問いませんが―――メディアって、「貪るように没頭する行為」が伴われるように思います。もちろん「須らくそうであれ」「誰だってそうに決まってる」みたいな意味では有りません。実際ぼくはまだこの本(「月ノさん~」)についてすべてを読み切ってはいないため。

そしてその行為とはインプット行為と言い換える事ができるように思えます。教訓、と言ってしまうと大げさですが、どんな小さなことでも―――例えばある本を読んで、お箸は利き手で持ったほうが割と人生を楽に過ごしやすい、という知見が得られたのであればそれは立派な教訓であると思います―――どんなに大きなことでも(例えば、明日必ず管理職たちにこのマインドを共有してPDCAサイクルをどうのこうの貢献リーダーシップしよう、みたいに思えたとしても)その本、映画、石像、etc…を経由したことがあなたの人生にたった1ヘクトパスカル程度の影響でも及ぼせたのであれば、あなたはそのメディアから何らかの教訓を受け取ったことになると個人的には思います。

ところでヘクトパスカルって台風の中心気圧の単位であり、低くなればなるほど描写不可能なぐらい信じられない強さの台風となるため比喩として全く機能していなく真似しないことをおすすめします。なんとなく、語を使って記述してみたかった。

つまりその入手過程(認知に端を発し、→選択→発注→開封→視聴/所有)のすべてにおいて並々ならぬ想いが注がれたメディアから受け取る影響力=教訓力は割とそれなりのものであるように思える。

知識が得られるかも知れないという欲求がラストエリクサー的感覚を上回れば、論理的帰結として続きが読みたくなるでしょう。そう思ったため続きを読みました。そして色々な知見を得た。

25ページ(本題)

当初は内容ばれするようなことはガンガン書いたりして、それなりに自由な読者の視界から何かと載せていくべきかと思っていました。

しかしながら内容に具体的な言及をしてしまうことはあまり活字メディアにとって必要な行為ではない気がここ何日かでしてきたため、読まれた方になんとなく通じて、未読の方によくわからないものが伝わるような書き方をすべきかと少なくとも今は思っています。

本題

果たして適切なものはカメラなのか、ムービー特化型カメラなのかということを考えさせられました。現代だと、撮影機材(デジタルカメラ、スマートフォン)を利用する上では「思い出を残す」という目的が必ずしも第一義的ではない。

ひと昔前に以下のようなことを述べればあらゆる方面から反感を買ったかも知れませんが、承認欲求とかそれに類する心情から派生する自己存在意義の確立なんかが「カメラに被写体を収める行為」の目的として無難に成立している。そういうことする人が増えたから間違いじゃなくなったよ、ってことですね。

今や、企業や個人事業主がSNSを使ったマーケティング、自分たちのブランディングをしなければ市場から淘汰されてしまいかねない。SNSを使う=自己実現であり、先に挙げた承認云々的なことはもはや副産物とすら形容できてしまうのかも知れません。殊ビジネスにおいては、という程度の注意書きぐらいは添えるべきでしょうか。

でも思い出とはその思い出に関わる人間にとって、その人足らしめるために機能する割と最強の道具でもある。記憶を失くすなんてことは極稀(もちろん不慮にそうなってしまうほど不幸なこともありませんが)とはいえ、必ず記憶は薄れてしまう。「自分すら忘れてしまったことを思い出させる証明書」みたいなものでしょうか……

続きます。


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