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「全人類見ろ」などという布教の仕方をすべきでない理由

口が悪すぎるからですね。10文字でnoteが終わってしまった。珍しいこともあるものです。

ヘッダ画像をお借りしています。あまりポジティブでない内容のnoteでお借りするのってあまりよろしくないということを自分にとっての不文律としているのですが、あえてネガティブな単語で検索したら意外にも結構な量のご提供絵が登場したため「そういうマイナスな感情が載っているnoteに絵や写真を使って欲しい方々もいらっしゃる」ということを新しい発見および理解の仕方とすることとして、お借りするに至りました。

かつぼくは人様に物事を強要する気がないため、それでも表題のような言い方をしたい方々に干渉する気もございません。単なる論説文です。

今回の表題のような言い方は

おそらく閉じられたスペースで表現されることが多いと思います。だから口が悪くても許されるという前提がおそらく発信者にはある。

だって「商談で今から財布の中身をこちらに寄越してくれるかどうかな相手」に「全人類おれの企業の商品を買え」なんて言いますか?アイスブレイクも何もあったものではない。

商談は100%金銭授受が紛れる───────といいますか目的が金銭授受な───────行為であるため、特に使用言語に敬体が含まれる国家であればそのような物言いがまずありえない。なんだか知らないが金を出す人間は神にでもなったかのように異様に持ち上げられてしまう国民性があります。

ぼくは敬体の非生産性について常々抱えていた一家言を持っておりますが内容が明後日の方向へ進んでしまうため、こちらは一旦置いておいて、いつかまたお話したい。

閉じられたスペースとはSNS

とかが該当するように感じられます。つまり気心の知れた相手しか見とらんし、という気の緩みが「布教時の心情」に紛れ込んでいる。

もし気が緩まないのであれば適切な文は「わたくしはこの映画が大変気に入ったのですが、期間限定ということもあり早々にお伝えする必要があるためこのような周知方法を取らせていただきました。◯◯って△△なところが面白いですよ!似た感性をお持ちの方がいらしたら是非!このような推薦文を目にされてお気に障られた方がいらっしゃいましたら、申し訳ございません」あたりが妥当でしょうか?もしそんな布教の仕方をする人が居たら観てみたいですね。多分聖人だからです。

商談という極端な例を出しましたが、金銭がからまない行為でもそれは同じことだと想像できます。それは相手に「逡巡」という時間的浪費を強要するため。

例えばSNSの例えついでに、SNSのフォロー行為とかだったらどうでしょうか?

「フォローしてください」おじたん

いきなり相手にリプライを送って、「俺様がフォローしてやったんだ、全人類俺様をフォローしろ」とか言ってきた奴をフォローし返しますか?

もしこれが敬語になったところで同じでしょう。あるいはプロフィールなんかに「俺様はフォローする価値があります。フォローしてください(意訳)」とか書いてある人を見つけたとして、もう一度その人のページを踏もうと思うでしょうか。

まずフォロー行為って強要するものですか?フォローの強要が許される例は、身内同士や職務遂行上でアカウントを結びつけておく必要がある場合のみです。

強制されたフォローって何を生み出すんですか?

「それ」は相手に興味を持ち、自分に何らかの意味をもたらすと、自分の人生のどこかの場所を豊かにできると思った瞬間に自発的におこなわれる行為です。

大抵のSNSでは「フォロー数」みたいなものが数値で可視化されてしまっているため、簡単に「手段」が「目的」に置き換わり、数字に踊らされてしまうのかも知れません。

言うまでもないですが本来の手段とはフォローにより人生を豊かにすること(そこまで大げさじゃなくてもいいと思いますが)、目的とは当該SNSを利用すること、それだけです。実に単純です。

数値が存在した時点で、数字が大きいほうが偉いだの、強いだの、なんでもいいでしょう……とにかくそっちのほうがいいと脳死状態で判断してしまう。

「比べ」に脳がシフトしてしまった瞬間に、行為は劣化もしくは淡白になりがちです。本来の目的は比較ではないはず。

「無言フォロー失礼します/無言フォローには反応しません」

つまりフォロー行為は自然発生的に無言でするものです。

発話フォローなどというおぞましいものがもし概念としてあったとして、その意味は「この俺がフォローという行為を貴様にしてあげましたけど?(だからさっさとフォローし返せ)」意外に存在しません。

自分のフォロー行為なんて自分のためにあるもので、相手にとっては無価値である」と理解できていれば、そのような発言はまず生まれない。「お書きになられたイラストがあまりにも素敵だったのでフォローさせていただきました」それ言う必要ありますか?ハートのボタンとかシェア用のボタンて何のために存在しているんですか?

何ですか?その圧力は……SNSって相手に圧力をかけるために存在しているんですか?

総括

愛する物事を、本当に布教したいと思っていますか?

「『その映画なり漫画なりを好きな人』は『全人類見ろ』なんていう推薦の仕方をするんだね」みたいなレッテルを貼られてもいいんですか?

余談ではありますが、ぼくはそういうレッテル貼りをする人はいわゆる「ある一面からは正義と思えるならば、その正義と相反することを一度でも述べた相手にはどんな暴力、言葉を投げかけても良い」と考える層、つまり極端なもしくは捻じ曲げられた正義の叩き棒を振り回すインターネット上にしか居場所がない層とほぼ同じだと理解しているため、彼らが貼り付けてくるようなレッテルには何の意味もないと理解してはおりますが、そのような層が残念にも存在してしまうのであれば関わるべきではない。つまりそのような層を呼び寄せないため、万が一にもあなたが愛しているコンテンツを汚(けが)させないためのリスクマネジメントの問題です。

布教の際には同時に自分自身が「そのカテゴリ・ジャンルを愛している人」という看板を背負うことになる。これさえ理解できていれば、どのように布教すればいいか、あるいは相手にフォローしてほしいならどうするべきなのかについては、説明されずとも自ずと理解できます。





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