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論理病をなおす!~処方箋としての詭弁( 2009/11/1)/香西秀信【読書ノート】

論理ではなく、詭弁を身につけてみないか?詭弁と聞くと、子供だましの芸当と聞こえるが、口先だけ達者になることではない。詭弁には、思考そのものを鍛える力がある。人が詭弁を使う時、その人特有の癖があらわれる。その癖を見抜くことで、思考のパターンが理解でき、おのずと論議も強くなる。論理的思考に満足しない人のための一冊。


序章:馬鹿だから詭弁に騙されるのではない

■詭弁研究の危険性について

■詭弁を研究して何になるのか?

  • 詭弁を学ぶことで、相手の用いた詭弁を自らの議論の武器にすることができる。

  • 詭弁を学ぶことは、思考力そのものを高めて議論に強くなるというこの思考力の向上に役立つ。
    なぜなら、詭弁を研究、勉強することで、人間がものを考えるときの本質的な「癖」のようなものが見えてくるからである。

■詭弁にも三分の理

誤った思考の型は、正しい思考の型以上に、人間のものの考え方について教えてくれる。たとえば、「時間的前後関係を論理的因果関係と取り違える誤り」というよく知られた詭弁がある。これは、A、Bという二つの事件が連続して起きた時、AをBの原因としてしまう誤りである。迷信などは、大抵これから生じる。
ある男が、酔っ払って神社の鳥居に立小便をした。ところが、その後、男の身によからぬことが続けざまに起こった。男は、これは神様の祟りに違いないすっかり怯えてしまい、あわててその神社にお参りし、普段からは考えられないほどの賽銭をはずんだ。
が、常識で考えて神社での立小便が男の身に起きた様々な災厄の原因であるはずがない。両者は、たまたま前後して生じた無関係な二つの事件にすぎない。
では、男はなぜ、このような愚かな誤解をしてしまったのか。
第一に、この男が、こうした誤解をするほどに、十分に知的論理的であったからである。男には、自然現象や社会現象の斉一性、安定性を信じるだけの知性があった。
何の原因もなく、自分の身にだけ、今までにはなかった異常な事件が突然に、しかも立て続けに起きるはずがない。必ず、何か原因があるに決まっている。そして、彼の自覚している普段とは異なった唯一の振る舞いが神社での立小便だったのだ。それゆえ、男は、神社での立小便を我が身に降りかかった異常事の原因とした。実に論理的ではないか。
なるほど、「科学的」な人々は、二つの事件が連続して生じたことを単なる偶然として片付けるかもしれない。が、この男はその偶然が説明したいのである。それは要するに、二つの事件を論理的に結び付けたいということだ。まさにこの論理が、彼を誤らせ、誤謬に陥れた
そして、世にはびこるインチキ宗教がつけ込むのも、人々のこうした論理癖である
もし人々が、自分たちの災難を単なる偶然として納得するのであれば、因果を振りかざして悪事を企む人間も付け入る隙がない。しかし、人々は、どうしてもこの災難の原因を知ろうとする。なぜ自分だけに、こんな不幸が襲いかかってきたのか、それを因果関係によって論理的に説明をつけたがる。
そして、自分で説明できないときは、それを説明してくれる人を求めるのである。
かくして、「お宅のお嬢さんが縁遠いのは、ご先祖様が辻切りにした按摩の祟りです。この百万円の壺を買って除霊なさい」ということになる。
こんな幼稚な詐欺に引っ掛かる人間は、ずいぶんと知力が低いように思われるかもしれないが、こうなってしまったのも、彼らがものごとを論理的につないで解釈しようとする強い欲求をもっていたからである。論理的な欲求が、非論理的な結末をもたらしてしまったのだ
第二に、男が、本当は神の祟りなど信じていなかったにもかかわらず、心の中にある小さな不安を払拭しきれなかったからである

■非合理なものへの恐れ

夢のお告げのような非科学的なことを本当は信じていないにもかかわらず、それはわれわれの心を一瞬でも不安にする。神社で立ち小便した男も、事情は同じだったろう。神の祟りなど現実にありえないことが分っていながら、「もしかして」という怖れを拭い去ることができなかったのだ。
完全に合理的になりえないことが、人間の精神の特徴の一つである。
このように、詭弁のほんの小さな一つの例からも、人間の精神についていろいろなことが見えてくる。
詭弁に騙される人は、単に馬鹿だから騙されるのではなく、人間の思考が、そのようなものを受け入れてしまう癖をもっているから騙されるのである。
詭弁を研究することで、人間のもつ根源的な思考の癖が明らかになるのではないか。
私が本書で、読者に知ってほしいのはそうした人間の思考の癖である。
それさえわかれば、議論の小技などは後から付いて来る。たとえ付いて来なくても、自分でいくらでも考え出せるようになるだろう。これが結局は一番効率のいい方法である。

第一章:詭弁なしではいられない

■どちらかの味方になってしまう

反対尋問の名手として知られた米国の弁護士フランシス・ウェルマンは、対立する二つの立場があるとき、人間は概してそのどちらかに味方してしまう性向のあることを指摘している(『反対尋問の技術』1903年)。

おそらく、あらゆる「証言の誤謬」の中で、最もとらえどころがなく、最も数の多い誤りは、無意識のうちにどちらかの味方をしてしまうことから生じる。(中略)法廷に立つ証人は大抵、自分たちを呼び出した側に好意をもつので、この感情が、自分たちが証言する側にとって不利に働くと思われるような事実を隠したりゆがめたりさせてしまう。

人が法廷に立つと、必ずどちらかの側の肩をもつようになってしまうのは、人間のどのような性質によるものなのだろうか。(中略)多くの人は、証言台で、評決をどちらかの側に方向づける「権力感覚」を感じ、愉悦を覚える。そして、それを満足させ、自分たちの側にとっての「よき証人」と思われようとする誘惑に打ち勝つことができない。今、「自分たちの側」と言ったが、彼らが証人席についたその瞬間に、彼らが証言しようとする側が常に「自分たちの側」になる。そして、彼らがその事件に何の利害関係もないであろうにもかかわらず、そちらの側が勝利することを本能的に願うのである。

誰でも、自分の意見と他人の意見が対立したとき、その人は自分の意見の肩を持ってしまうが、常に他人よりも正しい意見をもっているという保証はない。
自分の意見と他人の意見が食い違うと、その「両者」を客観的に比較考量(比較衡量)することはせず、とにかく自分の側に加担しようとする。
それは、本当はどちらが正しいかということとはまったく関係がない。
と言うよりも、どうあっても自分が正しいことを証明するために、われわれは議論すると言った方がいい。

■自分が正しいと思いこむ

アルトゥール・ショーペンハウアーは、『正しくあり続ける技術について』(1830-31年頃、生前未発表の草稿)の中で、これが人間の本来的な性向であることを述べている。
AとBの二人の意見が対立したとき、Aは自分の側に誤りがあることを懸念し、その考えを見直してみるということはせず、間違っているのはBの方だと決めてかかる。
人間は、本来的に独善的で、自分の立場に固執するものである。」
ショーペンハウアーによれば、これは人類の本性が下劣だからである。
そして、「その生来の虚栄心は、知力に関するときにとりわけ敏感となる。」
だから、人間は自らの知的虚栄心を満足させるために、事実がどうであろうと、どんな手を使っても議論に勝とうとする。
ショーペンハウアーの言う「正しくあり続ける」(Rechtzu behalten)とはこの意味であり、彼の草稿はそのための詭弁の使い方を指南したものである。
ショーペンハウアーに付け足せば、人間の虚栄心は知的なことのみならず、道徳的なことにおいても働く。誰が見ても品性下劣なのに、自分だけは高潔な生き方をしていると信じて疑わない。
そして、自分の歪んだ心を真っ直ぐに見るためには、逆に周りの方を歪めて見てしまうのである。
これは、「財布へ訴える議論」という詭弁が行使されたときの顛末を観察してみるとよくわかる。この虚偽は、要するに利益誘導のことなのであるが、怖ろしいのは、利益につられた人間が、自分が利によって動いたと思いたくないために、無理やり他人を悪者にしてしまうことである

■自分の銅像を建てたくなるわけ

肉体的生殖とは、単に生命が代々受け継がれることではない。自分が死なないことである。肉体的生殖には、生身の人間をコピーとして生むだけでなく、物質に自分の姿を保存するという行為も含まれる。功成り名遂げた人間が、自分の姿を肖像画や銅像で遺そうとするのは、疑似的な肉体的生殖と言える。彼らは、自分の外見を、生命をもたない無機物でもいいから後世に遺すことを望んだのである。
ただし、これらの物質は、ただ自分の死んだ後も遺ればそれでいいというものではない。自分が不死であるためには、誰かが自分の「生きている」ことを認めてくれなくてはならない。生きているとは、自分が生きていることを誰かが知っているということである。だから、人里離れたところに建てられた銅像や、倉庫にしまわれた肖像画など何の意味もない。それらはどうあっても、他人の目につくところに建てられ、飾られなくてはならない。そして道行く人が、その俗物ぶりに舌打ちしながらでもそれらを眺めるとき、彼らの一部はまだ死んではいないのである。
しかし、人間にとってより重要なのは、この肉体的生殖よりも、むしろ心霊的な生殖である。すなわち、自分の精神を後に遺そうとすることである
何らかの業績に自らの名を冠し、それを後世に遺そうとすることも心霊的生殖である。
それゆえ、「人はなぜ書くか」という常套句的な問いは、「人はなぜ、自分の考えを書記媒体で遺そうとするのか」と改められなくてはならない。
人間は自分の考えをただ書きたいのではない。考えを遺すために書くのである。したがって、最も長持ちのする書記媒体が、最も望ましい書記媒体である。自分の書いたものが活字になると嬉しいのは、それによって自分の考えがより後まで遺されるからである。
われわれはまた、自分の文章が他人に読まれることを喜びとする。
それは、自分の考えたことが自分以外の人間に伝わり、より長く遺る可能性が高まるからに他ならない。プラトン(ディオティマ)は、教育活動もまた心霊的生殖であるとした。
それは、自分の考えをより若い(より後まで生きる可能性のある)他者の中に遺そうとする行為である。
だから教育は、自分(教師)のために行うのであって生徒のためではない。
教師はなぜ、愚鈍な生徒よりも優秀な生徒を愛するか。これはもちろん、優秀な生徒の方が、自分の考えを正しく理解し、よりよく育ててくれるからである。
ここまでくれば、詭弁を使ってまで議論に勝とうとする「人間の本来的な性向」の正体が明らかになるだろう。議論(説得)もまた心霊的生殖であり、自分の考えを、半ば強引に他者の中に植えつけようとする行為である
議論とは、言葉で他人を支配し、自分の精神を伝播させようとする営みである。だから議論の目的を真理の追究や問題の解決に求めるのは、人間心理の本質的考察を欠いた浅薄な解釈と言わなくてはならない。
人間は、実に下らない、どうでもいいようなことまで、青筋を立て、感情的になって真剣に議論する。これは議論という行為が、その目的や必要からは説明できないことをよく示している。
人間は議論するとき、不死を希求するエロースというダイモーン(神と人間の中間にある神霊)に取り込まれているのである。
世間には、もちろん議論の嫌いな人がいる。
なぜ彼らが議論が嫌いかといえば、相手が喋る分だけ、自分の喋る時間が減るからである。あるいは、相手の考えが、自分の考え以上に聞く人間の中に遺ってしまう恐れがあるからである。
それはエロースの働きが薄弱なため議論に関心がないのではなく、旺盛すぎて議論が嫌いになったと言ったほうがいい。

第二章:曖昧さには罠がいっぱい/多義あるいは曖昧の詭弁

■本気らしさの欠如

「多義あるいは曖昧の詭弁」とは、議論(論証)中に現れる言葉が複数の意味で使用されることにより、また何を指すのかが判然としないまま用いられることによって、議論に不正を生じさせる詭弁のことである。
フランシス・ベーコンは、その著書『学問の進歩』(1605年)と『ノヴム・オルガヌム(新シイオルガノン)』(1620年)の中で、人間の「真の認識を妨げる先入観、幻影」として、「種族のイドラ」、「洞窟のイドラ」、「市場のイドラ」、「劇場のイドラ」の四つのイドラ(幻像)をあげている。
「その力は、ある特定の場合に悟性をくらませたり、わなにかけたりするのではなく、もっと一般的にまた内面的に、悟性の状態そのものに病毒を移し、腐敗させるようなものである。

■奇妙な例文

■これは詭弁か?

■小林秀雄、啖呵を切る

■不寛容の原理

不寛容の原理とは、寛容の原理(principle of charity)というよく知られた用語から私が勝手に作った言葉である。それゆえ、まず寛容の原理から説明しよう。
寛容の原理とは、例えば相手の議論が複数の意味で理解されるとき、できるだけその議論が妥当となるように、相手に都合よく解釈してやることを言う。
英語でgive...the benefit of the doubt(疑わしい点を相手に有利に解釈してやる)と表現されるイディオムがこれにあたる。
不寛容の原理はちょうどこの逆で、相手の議論が複数の意味で理解されるとき、できるだけその議論が誤りとなるように、相手に不利に解釈しようとすることである。ある種の多義あるいは曖昧の詭弁は、この不寛容の原理で説明できる。
これまでに扱ってきた多義あるいは曖昧の詭弁は、論者が自らの議論の中で、同じ語を多義に使用することによって発生するものであった。
が、これ以外に、相手の議論中に現れる言葉が多義的であることに乗じ、相手の意図したであろうことを無視して、なるたけそれを不合理で馬鹿げた意味に解釈し、それによって相手の議論全体を葬り去ろうとする――あるいはこちらの主張に有利なように変質させてしまう――ような詭弁がありうる。
相手の発言を、文字どおり、厳密に解釈することが、かえって不寛容になることもある。
荒木良造は『詭弁と其研究』(大正十一年)の中で次のような例をあげている。

公園内に於て樹木を折り取るべからず。
との掲示に対し、「竹」は樹木でないから折り取っても構はぬと、解釈する人がありとしたならば、その解釈は立法者の意思に反した解釈である、文理解釈から行けば文字の意義、または文章の意義によって解釈すべきなのであるから、樹木の中に竹は含まぬと解釈するのが正当であらうけれども、この場合は論理解釈の上から解釈すべきが至当であらう、論理解釈中の拡張解釈を取らねばならぬ性質のものである、即ち竹は樹木にあらずと雖も均しく折り取るべからずと、解釈せねばならぬものである、これが立法の精神であつて、竹は樹木にあらずと文字解釈をするのは、此の精神に反したものである、「禁苑内に於て魚鳥を捕らふべからず」との掲示に対し、「亀」は魚鳥にあらず、「蛙」も魚鳥にあらず、故に捕らへても構はぬと解釈するのも、これと同様であつて曲解であるとはねばならぬ、共に本来の意味より、範囲の広い意味を持つからである。

荒木は別の本(『詭弁の研究』)でも、散々飲み食いした挙句、一銭だけおいて「これで無銭飲食にはあたらない」と強弁した男の話(実話)を紹介している。
これらは意味論的(言語記号の意味について)ではなく、語用論的(言語記号の用法について)な多義あるいは曖味の詭弁と言える。
「公園内に於て樹木を折り取るべからず」という掲示があったとき、その掲示を出した人が「樹木」で何を意味しているかを考えるべきであって、それを無視して「樹木」の植物学上の意味のみにこだわるのは、解釈において不寛容な態度である。

■みだりに入ってはいけない

ある男がこの立て札のある公園で、芝生に入って弁当を食っていた。
それを見た管理人が、「この立て札が目に入らぬか」と男を咎めたとき、男が「みだりになんか入っていない、自分が芝生に入ったのは今日が初めてだ」と言い返したとしたら、この男は詭弁を弄しているのかいないのか。確かに「みだりに」には「むやみに」の意味があるので、そう考えると男は決して「みだりに芝生に入ってはいない。
「みだりに金を使ってはいけません」とは、金を使うことを一切禁止しているのではない。
だが、「みだりに」には、これ以外に「好き勝手に、わけもなく」等の意味もある。立て札を立てた管理人の意図は、おそらくここにあったと考えるべきで、それを「むやみに」の意味で受け取った男は、やはり解釈において不寛容だったのである。
そもそも、「むやみに過度に芝生に入ってはいけません」では、注意書きとしてほとんど無意味であろう。過度に芝生に入っている姿など想像もできない。
私が子どもの頃、近所のお寺に「みだりに鐘を突いてはいけません」という立て札があったが、これはもちろん「一、二回なら突いてもいい」という意味ではなかった。
だが、われわれはもう少し先を考えてみよう。
こう言われた男が、「では、なぜ『みだりに』などという余計なものをつけた。『芝生に入ってはいけません』だけなら、自分だって誤解しなかったのだ」と管を巻いてきたとしたらどうだろう。
しかし、この場合でも、男はやはり不寛容である。なぜなら、ここでの「みだりに」には、もともと大した意味はないからだ。注意書きとしてなら「芝生に入るな」で十分である。
が、こう書くと、日本語としては高圧的な調子になるので、「芝生に入ってはいけません」と猫なで声で微温化してみせた。さらに、「いついかなるときも、絶対に入ってはいけないのか」と絡んでくる人間がいるといけないので、あまり意味のない「みだりに」を飾りのように付けたということだろう。
要するに、「みだりに」に特別の意味を読み込もうとすること自体がすでに詭弁である。素直に、「芝生に入ってはいけない」と解釈すればよい。
銭湯で、「浴室での洗濯、ご遠慮ください」という張り紙を見て、「俺は遠慮しない」と自分の猿股を洗おうとする男は、詭弁を弄しているかあるいは単に馬鹿なのである。
その張り紙は「遠慮」を求めているのではない。

■三人はみんなか?

■曖昧は虚偽ではない

■えらいのはどっち

「偉い」や「いい」のような評価的意味が強い言葉は、概して記述的意味が曖昧なので、それらの言葉の適用を受けるためにいくらでも恣意的に根拠をあげることができる。
恣意的に根拠をあげるとは、要するに自分に都合よく意味を限定することである。
曖昧な言葉の曖昧さを解消するために、意味を限定し明確にするように見せて、実際はこちらの手持ちの材料を有力な根拠に変貌させようとしているにすぎない。
曖昧な言葉はそれゆえに論証に不正・不備を生じさせるが、曖昧さを取り除こうとすることもまた、新たな詭弁を発生させる温床となりうるのである

第三章:弱い敵を作り出す/藁人形攻撃

■相手の主張を歪曲する

藁人形攻撃(attacking as trawman)とは、相手の主張を、こちらが反論しやすいように(故意に)歪めて表現する詭弁。その歪曲には、言葉の言い換え、単純化、誇張、拡張、絶対化、一般化、文脈からの切り離し等の様々な手段が、多くの場合複合されて用いられる。
藁人形が生身の人間に較べて打ち倒しやすいように、歪曲された相手の主張は、実際のものよりも攻撃に対して脆弱なものとなる。
具体例
A[多義あるいは曖昧の詭弁]
授業で、学生にテキストを読ませていると、難しい漢字が出てくる度につっかえる女子学生がいた。
教師「君は帰国子女か?」
学生「侮辱です!」
教師「何っ!君は帰国子女を馬鹿にしているのか!」
B[藁人形攻撃]
「最近の学生はあまり勉強しない」
と発言した学部長の言葉を受けて、自治会委員長が、
「ただ今、学部長から、最近の学生は馬鹿だという旨の御発言がありましたが……」

■極論は弱い

多くの詭弁例が、複数の弁型式の性格をもっている。われわれはそれをもっとも説明しやすい型に分類するだけ。典型的な藁人形攻撃を、実例によって解説してみよう。
A「小学校の国語教育では、まずしっかりと漢字を覚えさせることが重要だ。」
B「では、あなたは漢字さえ書ければそれでいいと言うのですか。」
これは「単純化」に分類される例。
相手が「〇〇」と言ったとき、「○○でありさえすればそれでいいのか」と言い返す。
こうして、相手の主張を単純化し、極論に変貌させ、愚劣で脆弱なものにすり替えてしまうのだ。日常の議論の中で、ほとんど毎度のようにお目にかかるありふれた詭弁。

■小説を作れば、柔道が強くなるか

「単純化」と同じく、「拡張」もまた藁人形攻撃にしばしば利用される技巧。
これについて、ショーペンハウアーは次のように説明している。
「論敵の主張を、その本来の範囲を越えて押し広げ、できるだけ一般的なものとして解釈し、できるだけ広い意味にとり、また誇張すること。」
※漱石の拡大解釈(拡張):art → martial arts(武術)

■警戒すべき質問

相手の主張を拡張し、それを破綻に追い込む方法が有効であるならば、自分の主張はそれとは逆に、適用範囲をできるだけ狭く限定した方が安全ということになる。
ショーペンハウアーも、先に引用した技巧と対にするかたちでこう勧めている。
「自分の方の主張は、できるだけ意味を限定し、できるだけその適用範囲を狭く縮める。なぜなら、主張が一般的になればなるほど、それだけ多くの攻撃にさらされることになるから。」また、もし可能なら「その主張を最初の意図以上に狭めてみせることで」、それに加えられた攻撃から救い出すこともできる。

■広いか狭いかは目的次第

しかし、議論状況によっては、これとは全く反対の操作が功を奏することもある。
カイム・ペレルマンとルーシー・オルブレクツーテュティカは、『議論法の研究』の中で、自らの主張を特徴づける概念は、「決して曖昧ではないにせよ、柔軟で順応力に富むように」提示すべきことを述べている。
それによって、厳密にはその概念から外れるような状況の変化や新しい経験をも包含することができるから。もちろん、論敵の用いた概念は、「固定した、不変のものとして提示された」と解釈することは言うまでもない。
「論敵の概念を固定したものと性格づけることで、それに反論し、それがもはや有効でなく柔軟性にも欠け、したがって時代遅れのものであると見なしうることが容易となる。」
例えば、現代においても、社会主義が必ずしも無価値ではないことを主張したいときは、その概念をできるだけ柔軟に運用すれば、世界の先進国はすべてある意味で社会主義国であると認定できる。
逆に「資本主義」を極端に厳密に定義することで、もはや純粋の資本主義国は世界のどこにもないことを確認できよう。こうすれば、生き残っているのは、資本主義ではなく社会主義であるということになる。
ある概念を広く適用するか、狭く適用するかは、その時々の議論の目的によって異なる。
ペレルマンらは、次のような例をあげている。
敵を「ファシスト」と呼びたいときは、その概念の範囲を拡大して相手がそれに含まれるようにし、「民主的」と呼ばせないためには、その概念の範囲を限定して、相手がそこから排除されるようにすればよい。
逆に、自分達の盟友が「ファシスト」と呼ばれる恐れがあれば、その意味を狭めてそれに当てはまらないようにし、あまり「民主的」でなくともその意味を広げることで、強引に「民主的」であることにしてしまうのだ。
これは政治の世界では普通に行われてきたことだ。海千山千の政治家だけでなく、「良心的な」政治学者までもが、この技巧を用いて、ある国々の体制を「全体主義」ではなく「民主主義」であると称賛した。また、それらの国々に較べてはるかに「民主的な国々を「全体主義」であると罵ったのだ。

■頭悪さゆえの悪意

藁人形攻撃は、故意に相手の主張を歪曲した場合に限られるものではない
そのような意図的なものでなくても、不注意から相手の発言を誤解し、それに対して攻撃を仕掛けてしまうということはありうる。
これは、新聞の投書欄での論争などで、いくらでもその例を探し出すことができる。
例えば、Aの投書に対し、Bが反論した。が、Bの反論は、明らかにAの議論を誤解し、その誤解した議論(藁人形)に対して攻撃を仕掛けたものであった。このBの藁人形攻撃を故意によるものと考えず、思慮の不足か、あるいは逆上したがための錯誤と見なすこともできるだろう。
が、それは何らBの「罪」を軽くするものではない。A、B両者を読み比べてみると、Bは明らかにAと根本的に立場が異なっており、相反する主張をもっていることがわかる。
すなわち、BはAの議論におかしなところがあるから反論したのではなく、相手が自分とは正反対の主張をもっているがゆえに、最初から反論するつもりでAの文章を読んだのだ。
Aが自分とは違う主張をもっているのであれば、当然ながらBはAの意見には誤りがあると考える。そうでなければAの意見は正しいことになり、誤っているのは自分の側ということになってしまうからだ。
こうして、Aの文章にどうしてもあるはずの誤りを見つけ出そうとした結果、BはAの意見を実際よりも愚劣で反論しやすいものに読み違えてしまったのだ。議論において、相手の意見を誤解してしまうのは、大抵これが原因。
したがって、それが意図的ではないという理由で、何か無垢な過ちのように許容してやる必要はまったくなく、その「悪意」の程度は、意図的な歪曲といささかも変わるところがない。むしろ、意図的でないことはそれだけ読解力が薄弱ということになり、かえって救いようがないと言える。
だから、本書で、騙す意図がないと思われるにもかかわらず、私が虚偽ではなく詭弁という用語を使うのは、ある意味で「武士」の情け」。
それは頭の悪さゆえの悪意を、ただの悪意に割引してやることだからだ。

■滑りやすい坂

藁人形攻撃の、その他のタイプについて簡単にふれておく。
次に示すのは、やや戯画的な作例であるが、同じ性格をもつ議論には、われわれの日常生活でしばしば遭遇する。
学生「『論理学』の単位がないと看護学校を卒業できないので単位を出してください。」
教師「君は試験で百点満点の五点しかとってないのでとても単位はやれない。」
学生「しかし、出席点というものがあるでしょう。」
教師「君は授業中、化粧を直したり雑誌を読んだりそんなことばかりしていたではないか。出席点なんかやれるか。」
学生「それでは先生は、私に卒業するなと言うのですね。今看護師不足なのは御存知でしょう。一人でも多くの看護師が必要な時に、私に看護師になるなというのですね。人や怪我人が、看護態勢の遅れで何人死んでも構わないと言うのですね。」
これは、「滑りやすい坂の議論」という詭弁を利用した藁人形攻撃。
ダグラス・ウォルトンが『滑りやすい坂の議論』というその名のとおりの著書で、劈頭第一にあげている定義を引いてみよう。
滑りやすい坂の議論とは、もしあなたが最初の一歩を踏み出すと、いつの間にか逃れようのない厄介な帰結の連鎖に巻き込まれ、そのうちに何か破滅的な結末に向かって加速をつけながらまっしぐらに突き進む破目に陥ると警告するような議論。
つまり、もしあなたがAを選択すると、それはBという結果につながる。そしてBになれば今度はそれはCをもたらす。CはDに帰結し、最後には一連の因果の連鎖によって破滅的なEに到達してしまう。ゆえに最初のAを選択してはならないという論法。
例に出した学生の議論を分解して示してみよう。
『論理学』の単位がもらえない

看護学校を卒業できない

看護師になれない

看護師が不足する

看護態勢に遅れが生じる

病人や怪我人が十分な看護が受けられない

病人や怪我人が何人も死ぬ
(それでもいいか?もしそうでないなら「論理学」の単位をおくれ)
もちろん、因果関係や、その連鎖は、それ自体は何ら詭弁ではない。
その因果関係に必然性があり、妥当と見なされるのであれば、それは論理的で正当な議論。だが、その因果関係が、例えば「風が吹けば桶屋が儲かる」式にこじつけめいていて、明らかに恣意的につなげられているとき、その論法は「滑りやすい坂の議論」になっていると判断される。この学生の議論は、その典型と言うべきものだ。
何よりも、「論理学」で五点しか取れない学生など、動脈と静脈の区別もつかないであろうから、そんな人間は看護師にならない方がかえって看護態勢の充実に貢献するだろう。

この学生は、手前勝手な因果を連ね、「単位はやれない」という教師の言葉を、「卒業するな」→「看護師になるな」→「病人や怪我人が何人死んだってかまわない」と、段々に極端な主張にすり替えていき、教師に最初の一歩(単位はやれない)を踏み出させないように恫喝したのだ。

滑りやすい坂の議論を作るときは、最初から因果もどきの推論を一つ一つ連ねて行く必要はない。まず不都合な到達点を定め、後から強引にそれに向かって理屈を捏ね上げればよい
理屈と膏薬はどこへでも付くから、空白部分を埋めて因果を偽装するのはさほど難しい作業ではないだろう。

■強くなった藁人形

今まで取り上げてきた人形攻撃は、相手(論敵)の主張を議論として脆弱なものに歪曲し、それを相手の本来の主張の如く見せかけて攻撃するものであった。
これに対し、議論の中で自分の側の旗色が悪くなったとき、自分の主張を「歪曲」して、より強固な、少なくともより弁護が容易なものにすり替えるという手もありうる。
かつて「参議院無用論」という論文を書いた某学者が、ある政党から要請されて参議院選挙に立候補し、見事当選して平然と議員に納まったことがあった。
その後彼は、以前の発言との矛盾を追及され、「いや、私は参議院の現状について問題提起をしただけであって、必ずしも参議院が無用だと主張したわけではない」と苦しい言い訳をしたが、これなどがその典型。

■争点を変える

以下の節では、型式は藁人形攻撃に該当するが、それが果たして詭弁かどうかの判断がつきづらい議論をとりあげる。まずは、正真正銘の詭弁の例から引く。これは当人が、「崇高な」目的のためならどんな卑怯な手段も許されるとばかりに、確信犯的に詭弁を駆使している例。
村田宏雄(むらたひろお)『オルグ学入門」第一〇章の「質疑防衛法その一」を、とりあえずは真っ当なことから書き始めている。(注:オルグとは、「組合や政党を組織したり、労働者・大衆に働きかけて組織の強化・拡大を図る活動を行ったりすること。また、その人。」の意:明鏡国語辞典)

"理論闘争の場では、オルグが専ら一方的に相手に対して質問できるとばかり限らない。
先制攻撃とか、先手必勝という言葉がある通り、理論闘争では、質問する側にまわって、この質問により相手を攻撃する側に立つ方が、質問に答える受身の側に立つより有利であり、やり易い。したがって、相手もまたチャンスをつかんで、質問する側にまわり、攻撃しようと絶えず狙うことになる。そのため、オルグとしては、質問を受ける立場に立った時のことも、充分心にとめ質問を受ける準備を常々しておかねばならぬ。"

これは「オルグ」という言葉にこだわらなければ、実にまともなアドヴァイス。異常なのは、その「準備」の具体的内容だ。

"争点操作
この原型は、質問の意味を勝手にすりかえ、オルグにとって回答し易い質問に直し、それに長々と答え、それを聴く相手があきれると共に聴くことで疲労退屈し、再度の質問をする意欲を失わせるようにする方法。
「今の質問は、このような意味かと考える」などといって答えるような時、この争点操作を行っている場合が多い。この方法は相手がそれでは質問の回答にならぬと、再度回答を促してきた場合にも、相変わらず同じような的はずれの回答を続けるのが秘訣。"

ここで村田が、悪いことをしているという意識が皆無であることを見落とすまい。
正義はこちらにあり、オルグという崇高な任務を遂行しているのであるから、「悪」である相手をどのような手段で打ち破ってもそれは正しいのである。桃太郎が、いきなり鬼の目に砂をかけて目潰しをし、股間を蹴り上げて勝つようなものだ。相手は鬼なのだから、これは卑怯な手でも何でもない。
だが、論理学者の中には、この手のやり方を必ずしも虚偽とは見なさない者もいる。
革命前ロシアの論理学者セルゲイ・ボバルニンは、完全に問題をすりかえてしまうことは論外としても、即座には答えづらい質問に対し、あの手この手を使って回答を引き延ばすことは、「明白に許容される手法」であると断言している。それは「完全に許容され、そしてしばしば必要ですらある。」

”時に、論敵が持ち出してきた論拠に対して、われわれが即座に反論を見出せないことがある。それは、単に「頭に浮かんでこない」ただそれだけのこと。
そのような場合は、できるだけ相手に気づかれないように、「反論を引き延ばす」のだ。例えば、その論拠に関して、その意味を解明するためでも、あるいはもっと一般的に情報を提供するためでも、どんなことでもいいからたとえその必要がなくても何か問いを立てる。
そして、その問いに対し、何らかの関連がなくもないが直接には何の関係もないことを、迂遠なところから答え始めるといったように。そうしているうちに、頭が働き、望ましい反論が思い浮かぶということがよくある。その時は、すぐさま反論に移るのだ。”

ポバルニンが、一見詭弁的なこの手法を推奨するのは、人間の精神のメカニズムが「気まぐれ」だから。
議論の中で相手に何か言われて、とっさに言い返せないことがある。いったん言葉に詰まると気が動転して、ますます頭は働かない。だが、即座に反論できないことは、相手の言い分が正しいことを意味しない。
しばらく考えているうちに、その弱点に気づき、適切な反論を思いつくということもある。
その反論は、それが一秒後に思いつかれたものであろうと、一時間後に思いつかれたものであろうと、相手の議論を同一の観点から同一の方法で論破することにおいて全く同一の価値をもつ。
だとすれば、時間さえあれば簡単に論破できるような議論に、ただすぐには反論が思いつかなかったというだけで降参してしまう必要はない。
こちらがいい反論を思いつくまで「待って」もらえばいい。―こう考えると、のらりくら回答を引き延ばすことは必ずしも詭弁とは言えない。

■オリンピックと長生きは同レヴェル?

次の例は、論理的には詭弁と言えないかもしれないが、心理的には詭弁としか思えないものだ。論理学者の三浦俊彦は、『論理パラドクス』の中で、「待ち遠しさのパラドクス」と名づけたバラドクスについて説明している。
A「早く次のオリンピックになればいいのに」
B「ということは、早く年を取りたい、早く死に近づきたいということですね?」
BはAの主張をすり替えているのか、いないのか。(角膜移植手術を待っている目の不自由な少女に対して)
A「早く目が見えるようになるといいですね」
B「それは、早くドナーが死ねばいいということですか?」
三浦の表現を借りれば、少女が角膜移植を待つ時間と、ドナーが生きている時間とは「同じ現実のレベルにある」。
そして、ドナーが亡くならずに、その眼球(角膜)が提供されるということはありえない。
したがって、この場合でも、Bの発言はAの発言の別様の表現であり、内容のすり替えではないということになる。
しかし、こちらの例は、先の例以上に承服できない人が多いのではないだろうか。
確かに論理的には、ドナーが早く死ねば死ぬほど、少女は早く目が見えるようになる。が、少女が早く目が見えるよう願うことは、ドナーが早く死ぬことを願うことと同義だと言われれば、われわれの多くは抵抗を感じるだろう。
特にAは、Bの発言に対し、「自分はそんなことは言っていない」と憤慨するに違いない。事実は結局同じになるかもしれないが、自分は少なくともそのようなことは考えもしなかった、と。
例えば定員一名のポストに、あなたを含めて十数名の人間が応募したとする。
そのとき、あなたが「どうか自分が採用されますように」と神に祈ることは、「どうか他の候補者が採用されませんように」と祈ることと同じだろうか。
論理的にはこの二つは同じである(現実には、全員が不採用になることもありうるが、ここではその可能性は考えないことにする)。
他の誰かが採用されることは、そのままあなたが採用されないことを意味する。
しかしあなたには、「自分が採用されますように」と祈っているときに、同時に「他の候補者が採用されませんように」と祈っている意識はないだろう。
その意識がないにもかかわらず、それを意識化して表現されたことに、主張がすり替えられたと感じるのだ。この「感じ」は非論理的ではあるが、心理的には決して誤ってはいない。

■弱いところを引用する

恣意的な引用による藁人形攻撃についてもふれておこう。これもまた、詭弁かどうかの判断がつきにくい事例。
東京教育大学の筑波移転問題で、移転反対派の中心人物であった文学部教授家永三郎は、
「筑波大学の創設の中心となって活動してきた人々が、どのような信念を実現するためにあれほど筑波大学設立に全力を集中したかを見る」ために、移転賛成派の理学部教授福田信之の論文の一節を引用している。(正確に言うと、福田の論文を引用した教育学部教授大浦猛の論文から孫引きしている。この歴史学者らしからぬ横着さが、彼の文章が詭弁を疑われる最大の原因となっている。)

■詭弁は自制できるか?

アーヴィン・コービとキース・バージェスージャクソンは、虚偽論を学ぶ学生に対し、議論の最中に相手の主張をゆがめて解釈することのないよう忠告している。
君の、十分に考え抜かれ、慎重に組み立てられた議論が誤って解釈され、出来の悪いものとして論破されてしまったら、一体どんな気がするか想像してみたまえ。もし君が自分の議論をそのように扱われたくないのなら、他人の議論もそんなふうに扱うべきではないのだろう。
しかし、これは何の実効性もない忠告。誰でも、自分の主張が捻じ曲げられて解釈されたら激怒して抗議する。が、自分は他人の主張を歪曲して平然としている。歪曲されるような曖昧な主張をする方が悪いのだ。これは、この問題に限らない。
譬えは悪いが、他人の物を平気で盗む泥棒も、自分の物を盗まれたら腹を立てるだろう。他人の言葉に傷つきやすい人は、自分が他人を言葉で傷つけることに無神経。
だから、こんな役に立たない偽善的な忠告をするよりも、むしろ人間とはそうしたものだと心得て、この詭弁への対処法を考えたほうがいい。

第四章:論より人が気に喰わない/人に訴える議論

■いくつかの補足的説明

■人に訴える議論はなぜ詭弁なのか

■人と論とは切り離せない

■効果としての人に訴える議論

第五章:一を教えて十を誤らせる/性急な一般化

■なにをもって性急とするか

■偏見との結びつき

■この虚偽に危険性はあるか

■人を惑わせる鮮明さ

■偏った標本

あとがきにかえ/語学の達人に学べるか?



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