昭和22年(1947年)3月17日、二人は歴史的出会いをする。
それは富栄の友人、美容師の今野貞子の紹介によるものであるが、富栄は心から敬愛していた兄の年一(としかず)と、作家の太宰が同年齢で、同じ弘前高等学校(旧制)の卒業生であることを知り、帝国大学(今の東大)受験準備中に病死した兄のことを、特に高校生時代のことを、何か見聞きしてはいないかとの懐かしさから、その人に紹介してほしいと頼んだことによる。そのとき富栄は太宰が妻帯者であることを知らなかったと後の日記に書いている。ただ作家の太宰についての噂は聞いていた。ところが会ってみて、第一印象は全く噂とは違っていたのである。
”流説にアブノーマルな作家とおききしていたけれど、第一印象は違う。先生にお逢しながら著書を一冊も読んでいないということは恥ずかしかったけれど、「知らざることを知らずとせよ」の流法で御一緒に箸をとる。「貴族」と御自分で御仰言るように上品な風采。”
と日記に記し、太宰の第一印象が極めて良かったことがわかる。そして二人は聖書の話をしたのである。
”……聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか、の問に答えて私は次のように答えた。「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌(は)めたるが如し」。「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」。新聞社の青年と、今野さんと私とでお話した時、情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固を。そして道理的なこと。人間としたら、そう在るべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んででもおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持がして涙ぐんでしまった。戦闘、開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。”
聖書の聖句のことを聞かれたとき、富栄は自分の好きな聖句を二つ言った。それは見事な答えであった。聖書を愛読していなければ、とても答えられる答えではない。旧約聖書から一つ、新約聖書から一つを選んで答えた。これはいいかげんなクリスチャンにはとてもできることではない。りっぱなキリスト者の答えである。
二人が出会ったとき、ちょうど太宰は『斜陽』執筆中であり、富栄が言った旧約聖書の箴言の方は、そっくり主人公のかず子に言わせている。
『斜陽』の二章にそれは出てくる。
⇒機(おり)かないて語る言(ことば)は銀の彫刻物(ほりもの)に金の林檎を嵌めたるが如し[箴言25:11]
年譜によると、太宰は昭和二二年二月二一日、太田静子を訪ね、約一週間滞在し、その後伊豆三津浜に行き、安田旅館に三月上旬まで止宿、『斜陽』の一、二章を書いて八日帰宅した〈筑摩現代文学体系58〉。つまり三月八日までに、二章までは書き終えていた訳である。
太宰と富栄が初めて会ったのは、そして富栄がその旧約聖書の箴言の聖句を太宰に語ったのが三月二七日、という事は、太宰はすでにその聖句を原稿に書いている訳で、偶然の一致かも知れない。しかしもう一つの大きな可能性は、富栄から聞いたあとで太宰がそれを「書き加えた」ということである。
『斜陽』が完成したのは六月末であり、『新潮』の七月号から四回に分けて連載された訳であるから。その辺の事を富栄の日記のどこかに書いてないかと思って調べたが何もなかった。ただ富栄の日記は、重大な事件が起こった時にのみ書かれているので、とびとびなのである。
そして、『斜陽』には新約聖書の「マタイの福音書」から七つも聖句があるのに〈ざっと数えただけでも〉、旧約聖書からは、富栄が語った「箴言」ただ一つである。これらの事から、富栄から聞いたすばらしい旧約聖書の箴言の聖句を、太宰が後で書き加えた可能性は大である。
このように山崎富栄の教養は決して決して付け焼き刃ではない。もちろん太宰もそれを見抜いた。
こうして山崎富栄はダンディーで品位のある太宰治と出会った。アブノーマルという噂とは全く違っていたのである。二人の出会いは明治以来、近代日本が生んだ最大の文学者(井上靖評)と、宮中に出入りしていた山崎家の令嬢、将来は父の事業を継ぐはずであった、利発で清楚な美しさに輝く女性との歴史的出会いであったのである。
そして二人はキリスト者を凌ぐ、聖書の話をした。山崎富栄の聖書知識はカトリック系の「愛の園」幼稚園(当時は一部の裕福な家庭の子女だけしか幼稚園などには行けなかった)に入園したことと、日本大学第一外国語学院でロシア語を専攻していたが、YWCAでさらに英会話を学んだときに聖書に深く触れたことによる(彼女の日記を読めば、多くの聖書の言葉が書かれてあり、或る日の日記は、全部一つの詩篇でうめつくされている)
山崎富栄の聖書知識は半端でなかったのである。同じように太宰の聖書理解も一般キリスト者を凌ぐものであった。まさに知性と知性、教養と教養との出会いであったのだ。