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近代日本文学と聖書 (下) 太宰治―愛と死の深層/奥山実:1996/6/1【読書ノート】

太宰文学に福音の光を照射する! 
聖書を愛読し、精通していた太宰はほとんどキリスト者であったが、真の救いに至らずに滅びの心中に向かった。太宰の愛と真相を明かす画期的なクリスチャン文芸評論第三弾!


はじめに

いよいよ太宰治について書くことになった。「これは容易なことではない……」という偽らざる気持ちである。そしてどういうわけか四〇〇字詰の原稿用紙に向かいたくなった。
今までは半ペラを使っていたのである。これは個人的特別の事情で、やたら旅行が多く、漱石論も芥川論も、もっぱら列車の中や飛行機の中で書いたのである。資料も持ち歩くわけでカバンやスーツケースは本の山、……その重いこと。このようなとき、半ペラは使いやすい。しかしなぜか太宰には四〇〇字詰がふさわしいように思われた。「富士には月見草がよく似合う」ように。
「容易なことではない」と思うのは、期待されているからでもある。漱石論、芥川論を読んだ方々が「次作は太宰でしょう。期待してます」と言ってくださるのだが、なぜ太宰だとわかるかと言えば、『近代日本文学と聖書(上)』で夏目漱石、『近代日本文学と聖書(中)』で芥川龍之介と出れば、もう残るは太宰しかない、と文学好きの方なら自然とわかるわけである。芥川論に書いたように、漱石は高い山だが動かない山。芥川は動く山……つまり捉えにくい。

ところが太宰は「霧に包まれた山のように神秘に満ちている。」だから「容易なことではない……」のである。何度もその霧を晴らそうとしたが、晴れてくれない。おそらく誰も晴らすことはできないのではなかろうか。
わが家に数えてみたら、三〇冊くらい「太宰論」がある。そして「太宰研究」を含んだ文芸評論の本が同じ量ぐらいあると思う。さらに友人に借りたもの、図書館で調べたもの、数えきれないほどの太宰論を読んできたが、どれ一つ満足のいくものはない。それはそれらの太宰論がみなつまらないとか、低劣だなどと言っているのではない。すぐれたものが多い(中にはひどいものもある)が、ただみな太宰治を捉え損ねているというのが実感である。だからいまだに「霧の中」なのである。

このように専門家たちが捉え損ねているものを、どうして無学の若輩者が捉えうるだろうかと思うとき、「容易なことではない」と嘆息せざるをえないのである。ましてや「期待してます」などと言われてごらんなさい。中でもある有名大学の文学部教授までが、このような者の芥川論を読んで、「次作を期待してます」とお手紙をくださったのである。「あなたの太宰論を知りたい」という意味が込められているようであった。
この方はクリスチャンであるが、芥川論を読んで、大いに感動され、励ましのお便りをくださったわけである。この方の謙遜にこちらこそ心打たれた。というのは、芥川論の中で「小説の読者は作品がつくる」と言う文学界の公式を書いて、その作品が良ければ、自然と多くの読者がつく。そこで出版社もどんどんその本を出す。このようにその作品が良いか悪いかを最終的に決定するのは「専門家ではなく、読者なのだ」と書いたわけである。
この「専門家ではなく……」をよほどカットしようと思ったのであるが、そのままにしておいた。そうしたら、やはり予想していたように(漱石論、芥川論は丸善など一般書店にも出ている)、専門家の中にカチンときた人がいたようで、関西方面のあるミッションスクールの文学部教授(助教授?)が、ある名もない雑誌に私の芥川論を取り上げて、ネチネチと女々しい評論を書いていた。多くの人々が感動しているのに、である(自分で自分の本を褒めていれば世話はないのだが、これは客観的事実である)。
こうして多くの読者方から「感動しました」「原罪を知りました」……などなど、中には長文のお手紙をくださって、「友人たちにどんどん薦めています」などと言ってくださるのに、このミッションスクールの文学部教授には、何の感動もなかったようだ。こんな男が文学を教えているのかと思うと嫌になる。庶民の心が何もわかっていない。

このような事情を考えるとき、先ほどのある有名大学の文学部教授が心から感動してくださって、「次作を期待してます」とお手紙をくださった、その心の広さに当方の方こそ大いに感動したしだいである。また最近、かの三浦綾子さんが「芥川に迫るお作、感動いたしました」と私のような名もない者にお葉書をくださった。彼女こそキリスト者の鑑である。

文学論が出てから、やたら文学講演会が多いのであるが、九州のあるミッション系の女子短大で「芥川論」をやってほしいと依頼され、講堂で全校生を前にして話したのだが、講演が終わったら、学長が感謝の辞と共にコメントを述べられた。なんと全校生を前に悔い改めたのである。

「自分は今まで聖書の読み方がまったく的はずれであった。これからは聖書を自分の世界観、人間観で思弁的に読むことをやめ、聖書全体の主張を聞くという科学的態度で読んでいきたいと思います。私は今日「科学的」とはどういうことか新たに教えられ、目から鱗が落ちました」と深々と頭を下げられた。

すべてが終わって宗教主任が個人的に「学長があんなことを言ったのは初めてです」と洩らされたが、実は学長はリベラルな神学に影響され、福音の神髄がわからず、宗教主任もほとほと困っていたというのである。
「芥川論」の中で明らかにした事柄の一つは、芥川の滅亡の大きな要因は、芥川が晩年に至って(晩年といってもわずか三〇歳前半であるが)聖書を客観的に読まずに、自分の世界観、人間観で思弁的に読んでいたということであった。

私の講演を聞いて彼は自らの「滅亡」を知ったのである。有限なる人間の頭脳で作り上げたリベラルな思弁的神学では滅びるほかはないことを知ったのである。そこで漱石論のときのようにクリスチャンの読者たちはこの芥川論を伝道のために用いてくださる。だからまたよく売れるわけである。
そしていよいよ太宰である。これはもっと容易でない。しかし書く事柄は決っている。あとがきさえ決っている。そして不安もあるが、すこしばかりの自信もある。まさに「選ばれてあることの恍惚と不安との二つ」が今ある。

それは京都福音自由教会の牧師として学生伝道に励んでいたころ、私の文学論が大好きな学生たちがいて、何年かたって後についにオックスフォード大学で新約学の博士号を取得したペイン宣教師が中心となって「奥山先生の文学論は一部の人々だけに聞かせるのはもったいない。ぜひとも映画にして多くの人々に観てもらいたい」とクリスチャンAVセンターに強い要請をしたのである。

当時はビデオがなく、映画伝道が盛んであったのだが、映画なら大衆も観てくれるだろうというわけである。結局AVセンターにそれを製作するだけの資金がなく実現しなかったが、AVセンターの総責任者シュワブ氏は九分九厘製作する気でいた。京都の学生たちやペイン博士らは、つたない者の漱石論、芥川論、太宰論を聞いて「これは絶対に伝道に使える」と確信したのである。このような背景があるので、いささかの自信がある。

ところでよく考えてみると、「書くことは決っている」と前述したが、実は私の場合、漱石論、芥川論でもそうであったが、書き進むうちに「量子飛躍」が突如として起きるのである(現在のハイテク産業の基礎である量子力学の主流派コペンハーゲン学派の開祖ボーアの説……実は物理の論文もある雑誌に書いている。東工大の阿部正紀教授が私の物理のブレーンである)。
これは主なる神の恵みに満ちたご介入である。だから私の実力を超えた作品が出現するわけである。霧が晴れて、今日見た富士山のように照れ隠しに微笑んだ、そして輝くばかりの太宰が顕れてくれることを大いに期待して、太宰論を書いていきたい。

ただし、霧を晴らすためにかなり専門的議論を展開せざるをえないので、忍耐をもってついてきてくだされば幸いである。
一九九五年一二月一〇日 新幹線「のぞみ」の車中にて 奥山実

第三部 太宰治-愛と死の深層

1:太宰治と聖書

聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さを以て、はっきりと二分されてゐる。マタイ傳二十八章。読み終へるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ傳の翼を得るは、いつの日か。
と書いた太宰は、聖書を愛読し、精通していた。
全部、種明しをして書いてゐるつもりであるが、私がこの如是我聞といふ世間的に言って、明らかに愚挙らしい事を書いて発表してゐるのは、何も「個人」を攻撃するためではなくて、反キリスト的なものへの戦ひなのである。彼らは、キリストと言へば、すぐに軽蔑の笑ひに似た苦笑をもらし、なんだヤツか、といふやうな、安堵に似たものを感ずるらしいが、私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスといふ人の「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」といふ難題一つにかかってゐると言ってもいいのである。
と言った太宰は、ほとんどキリスト者である。ただし「ほとんど」である。約四〇年ほど前に、初めてこの文章に触れたときの感動を忘れることができない。クリスチャンになりたてだったので、百万の味方を得た思いであった。
周知のごとく、これは『如是我聞』の中で激しく、……激しくというより、狂るわんばかりに志賀直哉の偽善を攻撃しているときに書いたものだが、自分が何者かわかっていない志賀への攻撃を「反キリスト的なもの」との闘いだ、と言っている。
そして主イエスの教えに必死に従おうとしているのである。もう太宰はクリスチャンである、と言ってもよいようなものである。名ばかりのクリスチャンよりもはるかに勝る。このように太宰はほとんどキリスト者であった。

しかし、ほとんどキリスト者であるということと、キリスト者であるということには、まさに紙一重の差だが、天地の開きがある。それがキリスト教の神髄なのである。それは追って明らかになる。

もし太宰がキリスト者であったなら、八木重吉のように難題のただ中で勝利できたのである。哀れ太宰は、ほとんどキリスト者であった。それはまた、太宰と共に滅びに向かった山崎富栄も同じ、ほとんどキリスト者であった。
太宰と共に心中した山崎富栄は、当時の上流社会に属する立派な教養人であったのである。
なげにこう書いたが、実はこれは太宰の周りにいた文豪たち、そして後々の文芸評論家たちの「定説を覆す」重大発言であることを心に留めておいていただきたい。
彼らは全く異なった山崎富栄像を世に流しているからである。
これは後に明らかにしたいが、もし太宰と心中しなかったならば、彼女の家柄のゆえに、そして父の社会的立場のゆえに山崎富栄は宮中に出入りし、美智子皇后と親しい関係の中で、その一生を静かにしかも華やかに過ごす人だったのである。それほどの人であったことを、しかと覚えておくべきである。

昭和22年(1947年)3月17日、二人は歴史的出会いをする。
それは富栄の友人、美容師の今野貞子の紹介によるものであるが、富栄は心から敬愛していた兄の年一(としかず)と、作家の太宰が同年齢で、同じ弘前高等学校(旧制)の卒業生であることを知り、帝国大学(今の東大)受験準備中に病死した兄のことを、特に高校生時代のことを、何か見聞きしてはいないかとの懐かしさから、その人に紹介してほしいと頼んだことによる。そのとき富栄は太宰が妻帯者であることを知らなかったと後の日記に書いている。ただ作家の太宰についての噂は聞いていた。ところが会ってみて、第一印象は全く噂とは違っていたのである。

”流説にアブノーマルな作家とおききしていたけれど、第一印象は違う。先生にお逢しながら著書を一冊も読んでいないということは恥ずかしかったけれど、「知らざることを知らずとせよ」の流法で御一緒に箸をとる。「貴族」と御自分で御仰言るように上品な風采。”

と日記に記し、太宰の第一印象が極めて良かったことがわかる。そして二人は聖書の話をしたのである。

”……聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか、の問に答えて私は次のように答えた。「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を嵌(は)めたるが如し」。「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」。新聞社の青年と、今野さんと私とでお話した時、情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固を。そして道理的なこと。人間としたら、そう在るべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んででもおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持がして涙ぐんでしまった。戦闘、開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。”

聖書の聖句のことを聞かれたとき、富栄は自分の好きな聖句を二つ言った。それは見事な答えであった。聖書を愛読していなければ、とても答えられる答えではない。旧約聖書から一つ、新約聖書から一つを選んで答えた。これはいいかげんなクリスチャンにはとてもできることではない。りっぱなキリスト者の答えである。

二人が出会ったとき、ちょうど太宰は『斜陽』執筆中であり、富栄が言った旧約聖書の箴言の方は、そっくり主人公のかず子に言わせている。
『斜陽』の二章にそれは出てくる。
⇒機(おり)かないて語る言(ことば)は銀の彫刻物(ほりもの)に金の林檎を嵌めたるが如し[箴言25:11]

年譜によると、太宰は昭和二二年二月二一日、太田静子を訪ね、約一週間滞在し、その後伊豆三津浜に行き、安田旅館に三月上旬まで止宿、『斜陽』の一、二章を書いて八日帰宅した〈筑摩現代文学体系58〉。つまり三月八日までに、二章までは書き終えていた訳である。

太宰と富栄が初めて会ったのは、そして富栄がその旧約聖書の箴言の聖句を太宰に語ったのが三月二七日、という事は、太宰はすでにその聖句を原稿に書いている訳で、偶然の一致かも知れない。しかしもう一つの大きな可能性は、富栄から聞いたあとで太宰がそれを「書き加えた」ということである。

『斜陽』が完成したのは六月末であり、『新潮』の七月号から四回に分けて連載された訳であるから。その辺の事を富栄の日記のどこかに書いてないかと思って調べたが何もなかった。ただ富栄の日記は、重大な事件が起こった時にのみ書かれているので、とびとびなのである。

そして、『斜陽』には新約聖書の「マタイの福音書」から七つも聖句があるのに〈ざっと数えただけでも〉、旧約聖書からは、富栄が語った「箴言」ただ一つである。これらの事から、富栄から聞いたすばらしい旧約聖書の箴言の聖句を、太宰が後で書き加えた可能性は大である。
このように山崎富栄の教養は決して決して付け焼き刃ではない。もちろん太宰もそれを見抜いた。

こうして山崎富栄はダンディーで品位のある太宰治と出会った。アブノーマルという噂とは全く違っていたのである。二人の出会いは明治以来、近代日本が生んだ最大の文学者(井上靖評)と、宮中に出入りしていた山崎家の令嬢、将来は父の事業を継ぐはずであった、利発で清楚な美しさに輝く女性との歴史的出会いであったのである。

そして二人はキリスト者を凌ぐ、聖書の話をした。山崎富栄の聖書知識はカトリック系の「愛の園」幼稚園(当時は一部の裕福な家庭の子女だけしか幼稚園などには行けなかった)に入園したことと、日本大学第一外国語学院でロシア語を専攻していたが、YWCAでさらに英会話を学んだときに聖書に深く触れたことによる(彼女の日記を読めば、多くの聖書の言葉が書かれてあり、或る日の日記は、全部一つの詩篇でうめつくされている)

山崎富栄の聖書知識は半端でなかったのである。同じように太宰の聖書理解も一般キリスト者を凌ぐものであった。まさに知性と知性、教養と教養との出会いであったのだ。

太宰の友人であった亀井勝一郎が「『聖書』と太宰文学との関連を無視したならば、太宰文学の理解は不可能だと言っても過言ではあるまい」と言ったのはよく知られた話である。
また上智大学教授であった村松定孝は「……私事にわたるけれども、私が戦前戦後を通じて接した太宰との十年間の交際において、彼を訪ねるたびごとにほとんど聖書の言葉を口にしなかったときはないくらい、つねにキリストをたたえつづけていた……」と告白している。

小山清は、田中英光(昭和二十四年十一月三日、禅林寺の墓前で自殺し太宰のあとを追った)共々太宰にその才能を認められて、将来を嘱望されていた人物であって、数少ない太宰の側近くにいた弟子であった。私の持っている『太宰治全集』(筑摩書房昭和三十一年版)の「太宰治研究」は彼が編集したものであるが、「編集の見事さ」が高く評価されている。

その小山が太宰の聖書との関わりについて「太宰がその文学活動の初期から最後に至るまで、最も関心を持ってゐた対象はキリストであろう……中略……彼はただイエスの言葉に霹靂を感じたのである……中略……彼は最も素朴に、そして正当に、聖書を読んだのである」と語っている。

側近くにいた小山清が太宰が生涯キリストに集中し「最も素朴に、正当に、聖書を読んだ」と証言していることは重要である。というのは、これこそが最も正しい聖書の読み方であって、多くの人は自分の世界観・人間観で思弁的に聖書を読んでいるからである。なんとキリスト教のある神学者たちまでがそれをやって非聖書的神学をつくり出している仕末である。

太宰が「素朴に、正当に」聖書を読んだことは本当である。それは昭和一六年十月一五日の「早稲田大学新聞」に掲載された太宰の文書を読むとわかる。実はほとんど誰にも問題とされないような太宰の小論文だが、その中で彼は「ヨーロッパの近代人が書いた『キリスト傳』を二、三冊読んでみて、あまり感服できなかった。キリストを知らないのである。聖書を深く読んでゐないらしいのだ。これは意外であった……」と言っている。
これは太宰が「素朴に、正当に」聖書を読んでいた証拠である。このようなことの判別は、クリスチャンでない文芸評論家には無理であろう。また聖書をよく読んでいない、教会をサロンと思っているようなクリスチャンにも無理である。

太宰は素朴に正当に聖書を読んでいたので、「トルストイの聖書」を嫌った(碧眼托鉢のConfiteon昭和十一年三月)。そしてドストエフスキーにひかれたのである。つまりトルストイとドストエフスキーの、キリスト理解の差を知っていた。日本の知識階級でこのような専門的なことを理解している者はごく少数であろう。太宰治はただ者ではないのだ。
そしてこの点で太宰は芥川以上である。芥川はルナンなどという「ヨーロッパの近代人」が書いた非聖書的な「キリスト伝」の偽りを見破ることができず、その影響を受けたのに、太宰は見抜いたのである。太宰の奥の深さに驚嘆するのみだ。
一般に、太宰が聖書に近づいた大きな動機の一つとして、山岸外史との交友が挙げられる。そして聖書知識にかんしては、山岸の方が早くから聖書を読んでいたので、先輩格であると言われているが、二人の友人でもあった壇一雄によると、二人は会えば、「聖書のことで怪気炎をあげて」議論していたと言う。
その後輩の太宰が山岸に「汝、信仰うすきものよ(昭和十三年十月)」と手紙を送っている。実は山岸が『人間キリスト記』という本を書いたのだが、それは聖書の中心真理からはずれているのを太宰が知ったからである。いかに山岸が聖書を読み、聖書を「座右の感銘を与えるもの」としていたとしても、聖書を素朴に、正当に読んではいなかったので、太宰に断罪された。太宰の聖書理解はそれほど深かったのである。

もう一人の弟子戸石泰一は「太宰さんに、バイブルを教えてもらった。文学について、愛というものについて、人生について、私たちは太宰さんに教わった」と証言し、また「なんじら断食するとき、偽善者のごとく、悲しき面容をするな(マタイ六・一六)」とは耳にたこのでるほど、私達にたたきこんでくれたモラル……」と言っているようにいかに太宰が聖書を愛読し、またそれに従おうとしていたかがわかる。

太宰の最も近い友人の一人の壇一雄は「彼ほど言行一致の人を私は知らない」と語っているように、太宰は趣味のように、あるいは、文学の何かの糧として聖書を読んでいたのではない。この点で多くの文芸評論家は大きなミスを犯している。
このように太宰は実に真摯な態度で聖書に接していたのである。だからこの山岸外史の聖書からの逸脱を見抜いたのである(言行一致という点では太宰は東大名誉教授の竹内均よりはるかに勝る。竹内均は「ニュートン」の編集長で、マスコミで盛んに「進化論」をプロパガンダしながら、一方では「進化論は学問的になりたたない」という『エントロピーの法則』(ジェレミー・リフキン著、祥伝社)を訳して驚くべき言行不一致の人生をやっているからである。

太宰の偉大さはここにある。このように「文学活動の初期から最後に至るまで、最も関心を持っていた対象はキリスト」と側近くにいた弟子の小山清をして言わしめるほどに、キリストを仰いでいた太宰からキリストや聖書を除いて文芸評論家は太宰の何を語ろうというのであろうか。奥野健男をはじめ、多くの文芸評論家の限界はそこにある。

まさに太宰は全人類の救い主イエス・キリストに、手を伸ばせば触れるほど近くにいたのである。芥川よりも、もっと近くまで迫っていたのである。こうして太宰治は救済の瀬戸際に立った。
しかしそれにしてもどうして太宰は、その救済の丘から、この世で最も愛した女性と共に滅亡の谷に落ちたのであろうか。それは近代日本文学史上、最大の問題といっても過言ではない。

そしてまだ誰も納得のいく答えを見いだせない難問なのである。この難問と取り組むとき、人おのずは自然と人生そのものを、愛を、恋を、芸術を、美を、そして何よりも、神と人間との深い関わりを考えざるを得なくなる。それほどに太宰は語るに価する人なのである。

学燈社が出版している『國文学(解釈と教材の研究)』が「太宰治特集」を企画した(昭和四九年一月)。その中に奥野健男とドナルド・キーンの対談が載っている。太宰ファンや太宰研究家にとって、これほどのビック対談はない。この対談の内容のレベルの高さは格別で、種々の太宰研究の本に引用されているが、その中で奥野が驚くべきことを明らかにしている。

奥野:実は、四、五日前、井上靖さん、北杜夫さん、ぽく、それからワルシャワ大学の日本文学の助教授で谷崎潤一郎安部公房を訳しているナラノヴィッチさん、その四人で一緒に飲んで話し合いました時、「海外における日本文学」というふうな話題が、ナラノヴイッチさんというポーランド人がいたせいか、出たわけですが、そこで谷崎潤一郎の話、川端康成の話、三島由紀夫の話、安部公房の話など出ました。
その時井上靖さんが「もし近代日本文学、明治以後の日本の小説家で一人だけ世界文学の中に代表選手を出せと言われれば、小さいかもしれないけれど自分は太宰治だと思う」ということを、井上靖さんが言われたんで……。

キーン:ああ……面白い意見ですね。

奥野:井上さんと太宰は非常に近いというふうには普通の人は思ってないわけですが、谷崎でも川端でも漱石でも鷗外でもなくてやはり太宰だと言うのです………

驚くべきことに、作家の井上靖(ノーベル文学賞候補にノミネートされたこともある)は、明治以来、近代日本文学の最大の文学者は、漱石でもなく、鷗外でもなく、川端でも谷崎でもなく、「太宰治である」と言っているのである。

太宰文学の卓越さは、太宰文学に触れればわかる。良いものは良いのである。ゴッホの画を見て、我々は無条件に感動する。それは愛と同じように、美もまた原体験(人間すべてが体験すること)であるからだ。

ピカソが、「人は私の画がわからないと言う。しかし大事なことは、私の画をみて、美しいと感じて呉れれば、それでよいのだ」と言っていたが、そのとおり、「偉大なる事は、単純な事」(フルトベングラー)なのである。

太宰がこんな事を言っている。
「美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、自分で、自分ひとりで、ふと発見するものです。『晩年』の中から、あなたは、美しさを発見できるかどうか、それは、あなたの自由です。読者の黄金権です。」

太宰文学は、「喰わず嫌い」が多い。それは戦後文壇が太宰を冷遇したからである。文壇の頂点に立つ志賀直哉を名指しで批判し(『如是我聞』)、文壇を「サロン芸術、知識の大本営発表」と揶揄(『十五年間』)すれば、冷遇されても仕方がないが、坂口安吾織田作之助石川淳などと共に太宰は「無頼派」(新戯作派)と呼ばれた。

この無頼派は、思うにルネッサンス的様相を帯びており、既成の価値観、倫理を否定し、人間性の復活を呼びかけるものとして、戦後の混乱期に、新しい価値観を求める人々に、強い共鳴と共感を呼んだのである。
文学史的には、「無頼派」は「第一次戦後派」と時代的に並行するものだが、流れを異にした。「平野謙は、伊藤整の論に導かれながら、太宰を「破滅型私小説」と分類し、第一次戦後派によって超えられるべきものと規定した。

以後長い間、太宰文学はこの延長上で評価されてきたと言える」(鳥居邦郎、「私小説」というカテゴリーに入れてしまったのが、そもそもの誤り、これについては後述する。)とあるように、何か太宰文学を抹殺しようとする政治的意図さえ感じられる。しかしそんな政治は芸術には通用しないのである。

良いものは良いのである。文壇からの種々の迫害の中で、太宰文学は、いよいよ輝きを増してきたのだ。実は中央公論社が「日本の文学」と題して日本文学全集(全八〇巻)を出版した。その後、『対談・日本の文学』でまた一冊つくった。

その対談の中で大岡昇平が太宰や安吾ら無頼派に触れて、次のように語った。
「……戦後のああいうむずかしい社会的、政治的状況にあって、とにかく人間回復の志向があった。堕落にもまた意味を認めようとしていた。ところがあの連中は戦後文学は回復、回復って勇ましく、おれたちは勇ましくないんだということでしょう。ぼくもあまり勇ましいのはごめんだが、最初から負け犬気どりでちょこちょこやってるのもぼくは好かなかった。だけどあれも時代の勢いだったからいま戦後二十五年たってみれば、それがわかります。戦後作家はついに円熟しないが、第三の新人はしましたからね」

この大岡の発言で、まず第一に注目すべきは、太宰や安吾、織田作之助らを「あの連中」と呼んでいる。人を見下げた差別用語である。大岡昇平たる者が、である。別のところで(対談の)『斜陽』は面白くなかった、と事もなげに言っている。

海外でさえも高い評価を得ている作品に対して、である。また引用文の最後のところで「戦後作家はついに円熟しなかった」と言っているが、文脈から太宰ら「無頼派」であることは明らかである。「戦後二十五年たってみれば」と言うことは昭和四五年のこと。つまり昭和四五年の時点でわかった事は、「無頼派」など戦後の混乱期に花咲いた一時のあだ花であって、「みなさい、皆んな廃れてしまったではないか」と言っているのである。
この大岡昇平の不勉強ぶりにも呆れるが、これは偏見から来る無知と言うもので、太宰文学はその時すでに日本のみならず、海外でも大きな名声を得ていたのである。

「第三の新人」など足元にも及ばないほどに(第三の新人……とは、戦後の混乱期が治まって、昭和二七、八年頃から文壇に登場してきた安岡章太郎吉行淳之助庄野潤三遠藤周作三浦朱門

2:太宰文学の海外での高い評価

3:太宰文学の卓越性

ところで何でもあけすけオープンのように思われる太宰であるが、自分の小説作法については、あまり明らかにしない。
自作を説明するといふ事は、既に作者の敗北であると思ってゐる。
と語るがごとくである。太宰は心得るべき事は心得ているのである。

早稲田大学で英米文学を教えていた武田勝彦教授は、太宰のこの見事な「書き出し」について、
……文体のかろやかさ。連用形に助詞の「て」を付ける叙述を極度にさけているのは、ちょっと西鶴のスピーディな文体にも共通するし、しかも、西鶴よりも繊細でエレガントなものがある。太宰のフランス的詩趣によるとみてよいであろう。
と語り、井原西鶴以上のエレガントな文章構成に、ほとんど溜息まじりのすばらしい評論を展開している。このように専門家をさえうならせる太宰の小説作法は、まさに天才のなせる業であって、他の追従を許さない。このようにして太宰治は、その実力によって世界の太宰になったのである。文壇のプロパガンダ「太宰は危険だ」を打ち破って。

そして天才太宰の小説作法の一つ、「書き出しの巧さ」は、初期の作品から顕著であるが、彼の処女創作集『晩年』の「書き出し」こそ太宰文学と太宰理解のほとんどすべてが懸かっている、といっても過言ではない。
こうして太宰治は、人が何といおうと、今や日本のみならず、世界に通用する、押しも押されしない日本の代表的な大文学者なのである。そして、さらに後述するが、太宰治の聖書知識と聖書理解の高さ、深さ、そしてその広さは、すでにみた様にキリスト者以上だったのである。
また特筆すべきことは、小山清の言うがごとく、主イエス・キリストの言葉に「霹靂」を感じ、実に真摯に、その言葉に従おうとし、弟子たちにも、それを勧めていた、という事実である。つまり単なる知識の補充として、文学の糧として、聖書を読んでいたのではないのだ。これらの事を知らないと真の太宰を捉えることは決してできない。また真の太宰文学もわかるわけがない。
さて、これらの事は、実は太宰理解の、そして太宰文学理解の伏線だったのである。そしていよいよ本論である。本論でこれらの伏線が豊かに生きてくる。

4:恍惚と不安と二つ

5:信仰の詩

6:太宰治の信仰

7:死なうと思つてゐた

8:太宰とコミュニズム

9:死への誘い(形而上の気質)

芥川もそうであったが、太宰はほとんど本質的に死に誘われていた。その太宰の実相を表す言葉をやっと見いだした。それは「形而上の気質」である。
形而下の変化はありますけれども、形而上の気質に於いて(メリイクリスマス「中央公論」昭和二二年一月号)
そうなのだ。太宰を死へと絶えず誘っていたのは、この「形而上の気質」なのである。

では、形而上の気質とはいったい何であるのか。もちろん「形而上……」というのは、哲学用語なので、少しばかり哲学の話をしないと説明がつかない。太宰がこの用語を使う場合は、本来は「形而上学的気質」と言うべきであったが、そして太宰はその事を知り過ぎるほど知っていたのだが、文学的に「形而上の気質」と言ったのである。

「形而上学」とは、英語ではMetaphysicsであって、もともとはギリシャ語のMeta(後……の意)とphysica(自然学……の意)から成っている言葉で、「自然学の後」という意味である。それはアリストテレスの著作集の編集のとき、自然学の「後に」配列された一群の論文集があって、それを指して言われたものである。その一群の論文集とは、アリストテレス自身が言った「第一哲学」または「神学」……つまり、すべての存在を存在たらしめている原理の追求、あるいは研究である。

このようなことからMetaはやがて「超越」という意味となり、「形而上学」は変動する相対的な、この見える世界(形而下)を超えて」存在する何ものかの探求を指して言うようになった。一般的に無神論者や唯物論者はこの形而上学を軽蔑する。もちろんマルキストも同じ批判をもつ。
それを承知の上で、太宰が敢えて「形而上……」と言ったのは、コミュニズム的世界観の拒否を表明していると思われる。
さて、では太宰はどのような意味で「形而上の気質」と言ったのであろうか。その真意は何だろうか。そのためには文脈を見なければならない。
しかし実はこの言葉が出ている「メリイクリスマス」よりも、その少し後にかかれた「フォスフォレッセンス」(「日本小説」昭和二二年六月号)の方がはるかに形而上の気質の意味が明らかになる。

私は、この世の中に生きている。しかしそれは、私のほんの一部分でしか無いのだ。同様に、君も、またあのひとも、その大部分を、他のひとには全然わからぬところで生きているに違いないのだ。
私だけの場合を例にとって言うならば、私は、この社会と、全く切りはなされた別の世界で生きている数時間を持っている。それは、私の眠っている間の数時間である。私はこの地球のどこにも絶対に無い美しい風景を、たしかにこの眼で見て、しかもなお忘れずに記憶している。
私は私のこの肉体を以て、その風景の中に遊んだ。記憶は、それは、現実であろうと、また眠りのうちの夢であろうと、その鮮やかさに変りが無いならば、私にとって、同じような現実ではなかろうか。

右の引用文の傍点をうったところ「この社会と、全く切りはなされた別の世界」「この地球の、どこにも絶対に無い美しい風景」……に注目していただきたい。それが太宰の言う「形而上」の世界、であってこの世に無い様な美しい世界である。それは単なる夢の世界ではなく、太宰はそれを「現実」の様に感じている、と言うのである。それが「形而上の気質」である。
それにひきかえ、形而下の世界は、絶えず変化し、邪悪な人間のうごめく醜いこの世である。

太宰は、この世の人間の醜さに、つくづく嫌気がさして、夢のような形而上の世界に限りない憧れをもっていた。それは太宰にとっては、単なる夢ではなく、現実につながっているのである。だから、汚い醜いこの世に生きてはいるが、「地球の上には絶対に無い湖のほとりの青草原」(フォスフォレッセンス)に寝ころぶこともできる訳で、これが「形而上の気質」である(「それは観念の遊戯に過ぎぬ」と言うカントの嘲笑が聞こえて来る様であるが、そんな安っぽいものではない)。
では太宰だけが、この様な特別の感情を持って生きているのであろうか。実はそうではない。

人間はすべて、この形而上の気質で生きているのである。読者よ、実はあなたもそうなのだ(文学でさえも、一種の「形而上学の気質」なのである。アメリカの作家ポーは、平板な現実をありのまま写すのが文学ではなく、文学はむしろ現実を忘れさせてくれる一種の興奮状態を作りあげることだ、と言っている。
またカーライルは、文学は地上的な、現世的な、あるいは日常的なものの中に、神的なものを認めることであると言う。まさにそれこそ「形而上の気質」なのである。勿論、阿部知二や中野好夫の言うが如く、文学を一言で定義するのは至難の業ではあるが、文学がポーやカーライルの言うが如きものなら、それは「形而上の気質」なのである。

実は熟考するならば、音楽や絵画、否あらゆる芸術は、「形而上の気質」と言う事も出来るだ太宰は「ねむるようなよいロマンスを一篇だけ書いてみたい。」(「葉」)と言った事がある。悔いのない真実の恋、永遠に消えることのない愛の物語……。
今、全アメリカ話題の本、「マディソン郡の橋(The Bridgesof Madison County)』と言う、愛の物語がある。映画化もされて、アイオワ州の、それまで全くの無名だったマディソン郡に、観光客がおしよせている……。この記事を「ニューズ・ウィーク』で読んで、是非ともこの本を読みたくなった。文学好きの知人が、英語と日本語訳をもっていたので、早速両方とも借りて来たのだが、なるほど現代アメリカの永遠の愛の物語、まさに「ねむるようなロマンス」である。

著者は、ロバート・ジェームズ・ウォラー(Robert James Waller)と言う引退大学教授で(健康の理由)、二冊のエッセイ集を出版したことはあるが、小説としては処女作である。この小説が、これほどアメリカ人の心を捉えたのは、何よりも、実際におきた男女の愛の記録にもとづいたものであり、また制約された社会で生きねばならない現代人の「夢と憧れ」に、見事に応えているからであろう。作者はふとした機会に、その記録を見せられて、小説として書き上げたのである。

男の名はロバート・キンケイド(RobertKincaid)。彼は有名な「ナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)」のフリーのプロのカメラマン。アイオワ州のマディソン郡に、めずらしい屋根付き橋があって、それを雑誌に載せるために出張を命ぜられ、機材を積んで古いシヴォレーのピックアップ・トラックでやって来た。
真夏の暑い昼下がり、道を聞くために、ふと立ち寄った平和な一軒の農家で、美しく清楚な主婦と出会う。その名はフランチェスカ(Francesca)。幸か不幸か、夫と子供たちは、遠くの町のロデオ大会に参加して、何日か留守であった。平和ではあるが、何の変化もない退屈な田舎町の日々、ただ空しく時は過ぎて行く……。そこに現れた、しなやかな都会人。プロのもつ集中力とエネルギーを備えた、田舎にはいない、別世界の男。しかも知的な優しさがあった。

彼女は橋まで彼を案内する。それが何日か続いた。彼女にとって仕事に打ち込む彼のすべてが新しく魅力的であった。そして数日の間に二人は激しい恋におちる。それは彼女にとって初めてのたぎるような熱い体験であった。恋は二人を天に携え上げる。ああ愛の陶酔……。できることなら、すべてを捨てて、彼と共に新しい人生に飛び立って行きたい。彼のような男こそ、彼女が夢に見ていた人だったのだから。しかし平和な家庭を破壊することはできない。そしてついに彼女は家族の幸せのため、男の誘いを振り切るのである。
去り行く男を見送って、彼女は胸も裂けよと慟哭する。
狂おしいほどに切なく、そして儚い恋。
男は去って行った……。しかしすべてをゆるして激しく燃えた男との炎のような恋の「思い出」は、決して消えることはない。
彼女はその思い出をしっかりと胸に秘めて残りの人生を生きていった。
マディソン郡に夜の帳がおりた。一九八七年、彼女の六十七回目の誕生日である。フランチェスカは二時間ベットに横になっていた。二十二年前のすべてが目に浮かび、すべての感触が、匂いが、声が甦った。
彼女は思い出し、それからまた思い出した。雨と霧のなか、州道九二号線に消えていったあの赤いテールライトのイメージは、二十年以上も、彼女につきまとって離れなかった。
自分の胸に手をやると、そこにそっとふれた彼の胸の筋肉の感覚が甦った。
ああ、あんなにも彼を愛していたのに。あのとき、彼女は愛していた。自分でも信じられないほど彼を愛していた。そして、いまはそれよりもっと愛している(『マディソン郡の橋』)

ああ、夢のような出来事!平凡な、何の変哲もない生活の中に、突如として訪れた稲妻のような恋……。それは砂漠の中に光るダイヤモンドの輝きにも似て、彼女の生涯の宝となったのである。そしてその思い出の中の二人はいつも若く、いつまでも輝きを失わず、彼女は、前にもまして彼を愛し続けるのである。
この彼女の思い出を、単に「夢」といえるであろうか。それは現実の彼女の人生の中に生き続けているのである。これが「形而上の気質」である。二人はすでに老いていた。しかし思い出の中の二人は決して老いない。だから彼女は彼を前よりも、もっと愛している。
もし仮に彼女が家族を捨てて、彼のところに走ったならば、たぶん二人の恋は終わったと思う。形而下の現実は甘くはない。彼女の美貌も衰え果て、シャープな彼の立居振舞も若いエネルギーも失われ、哀れな老人となるからである。二人は男として、女として、最も輝いた時に別れた。それゆえに愛が残ったのである。こうして形而上の世界に、二人の愛はいつまでも生き続ける。

映画「カサブランカ」は、今でこそ技術的未熟さは感じられるが、映画としては最高傑作の一つであろう。ストーリーの展開も極めてテンポが良い。最後に愛している女を、夫と共に飛行機で逃がしてやる「別れ」の場面は「男の美学」。この場合も別れたからこそ、愛が、愛として輝き、長く長く思い出の中に残るのである。
そして名作「カサブランカ」は多くの人に感動を与え続ける。
ここで賢明なる読者は悟ったと思うが、愛が愛として完成していくのは、形而下の世界ではなく、形而上の世界なのであって、形而下の世界では「別れ」こそが愛を完成させるのである。
そしてその愛は別れた二人の「思い出」の中に生き続ける。
だからもし、形而下の世界に、二人が別れないで存在し続けると、愛が冷えていく。そして夢も消える。「ラブ・イズ・オーバー」。それが現実である。「マディソン郡の橋」が愛の物語として多くの人々に感動を与えるのは、女が家族の幸せのために、愛する男と別れたからである。その「別れ」をとおして、愛が愛として残ったのである。このように、形而下の世界では、決して愛は永続しないので、「別れ」をとおして形而上の世界に花咲くのである。

そして、その「別れ」を徹底すれば「死」となる。ここに「死への誘い」がある。限りなく美しいものに強い憧れをもっていた太宰は、形而下のもろもろの醜さと汚れにつくづく嫌気がさしていた。そして形而上の夢のような美しい世界に想いを馳せていたのである。だからこの汚い形而下からいつでもおさらばしたいと思っていた。つまり「死なうと思つてゐた」のだ。
形而上の気質、これこそ彼を死に誘うものであったのである。このように太宰は芥川と同じように、本質的に死に誘われていたのだ。

10:愛と死

11:男の愛と女の愛

12:愛 原体験

13:太宰治とキリスト

14:太宰の滅亡

あとがき


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