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2023年2月の記事一覧
しばらくぶりの、おおきな問い。
今年も確定申告が終了した。
と言うとフリーランス界隈の方々から嫉妬と羨望、ことによれば憤怒のまなざしを一身に浴びそうであるが、違う。ぼくはなにもやっていない。作業のすべては税理士の先生にお願いしている。「すげー」とか「おれなんてまだ領収書の整理も」とか言われるような話ではないのだ。すげーのは税理士の先生であり、ぼくはすごくも偉くもないのである。
しばしば日本人は、税金の使い途に無関心だと言われ
それがわたしのほしいもの。
それ以外のことばが出てこない。
たとえば、ほんとにうまいものを食べたとき。ぼくは「うまい」「すごい」「おいしい」あたりのことばしか、口から出なくなる。それが飲食店である場合、まわりのテーブルではみんな近況を語り合ったり愚痴をこぼし合ったり愛を語らったりしているのに、ぼくのテーブルだけは「すごいね」「おいしいね」とひたすら料理を(原始的なことばで)語り合っている。みんなよくこんなにおいしい料理を食
お天道さまは見ている。
先日、すんばらしい編集者さんと打ち合わせしていたときのこと。
あなたはどうしてそこまで、自分の書いた原稿が「届くべき読者」に届くと信じきれるのですか。いま一緒につくっている本の内容に関連して、そういう趣旨の質問を受けた。これと似た話については以前、note にも書いたことがある。
実際にぼくはこれまで、さまざまな編集者さんから見つけてもらってきた。それはぼくが優れていたからというよりも、その編
普通であることの勇気。
ある時期からとても、生きるのが楽になった。
つらいなあ、苦しいなあ、という自覚があったわけではない。それでも心に相当の負荷がかかっていたのは間違いなくて、ある事実を受け入れることにしたとき、重たい荷物を降ろしたような解放感が確実にあった。
30歳過ぎくらいのことだっただろうか。ぼくは自分が「ふつうの人」であることを認め、しずかに受け入れた。才人・奇人ではなく、平々たる凡人。とりたてて優れたとこ
気が高ぶると思い出すことわざ。
小学生のころ、子ども向けの「ことわざ百科」みたいな本が好きだった。
ことわざとは、古くから言い継がれてきた格言のようなもので、多くの場合が皮肉やユーモアを含んでいる。日常生活における教訓、なるほどおもしれえと唸らされる風刺、また人生の真理と呼べるものまでさまざまある。しかし、小学生の自分にとっては「古くから言い継がれてきた」部分、すなわちむかしの日本の様子を知れるところがおもしろかった。解説のた
発明のお手本として。
あれは何年前の出来事だったか。
レディ・ガガさんが来日したときのこと。移動のために新幹線を使ったガガさんが、品川駅に入った立ち食い蕎麦屋でわさびたっぷりの蕎麦を食した、というニュースが話題になっていた。たぶんご本人がツイッターかインスタグラムに投稿していたのだと思う。当然ながら日本人は「ガガ様www」的な反応をする。「もっといいもん食えよ」とか「立ち食い蕎麦にガガ様いたらマジ笑う」とか、そういう
書き写すことの効用。
あのアドバイスは、いまも語られているのだろうか。
ぼくが中高生のころ、作文や小論文のお手本として「天声人語」を読みなさい、という話をよく聞かされた。父親が巨人ファンだったわが家はもっぱら読売新聞を購読していて、当時はインターネット(つまりは新聞の電子版)もなく、「天声人語」を確かめることができない。なのでぼんやり「そういうものなのかなあ」くらいに思っていた。
天声人語がいいとか悪いとかはさてお
そのおおきな枠組みのなかで。
したい人がすればいいし、できる人がすればいい。
寄附の話である。ぼくは毎月、国内外3つの機関に自動引き落としでの寄附をしている。そしておおきな災害のあったときには別途、まとまった金額を寄附するようにしている。「偉いでしょう」と言いたいのではない。「あなたもやりなさい」と言うつもりもない。寄附したいからしているだけだし、たとえばパンの耳ばかりかじっていた20代のぼくに寄附など、したくてもできなかっ
距離の違いと、フォームの違い。
抱えていた原稿のひとつに、区切りがついた。
原稿用紙15枚程度の、短い原稿だ。とはいえ、その短さが執筆を楽にしてくれるわけではない。むしろぼくの場合、短い原稿ほどあれこれ悩み、苦労することのほうが多いくらいだ。
短い原稿の、なにがむずかしいのか。これはもう「一文の重み」としか言いようがない。ひとつのパラグラフを変えるだけで、いやひとつの文を変えるだけで、短い原稿は容易にその全体像を変えてしまう
脈絡もなく、性懲りもなく。
冬にまつわる3つの話。
① 観葉植物、枯れはじめる。
現在オフィスに3つの観葉植物がある。サボテンまで含めれば5つだけど、サボテンは植物界のダイオウグソクムシとも言える存在で、ほとんど世話を必要としない植物だとされている。それゆえ、まあ観葉植物は3つ。ひとつは自分で購入したもの。残るふたつは昨年夏、オフィスの移転祝いにいただいたものである。
その観葉植物が3つとも枯れはじめた。まだまだ元気な
もどかしいとは、どういう状態なのか。
中学時代に一度、右腕を骨折したことがある。
手首と肘のあいだ、すなわち前腕部。そこに通る尺骨と橈骨の両方をボキン、と折った。橈骨のほうは前腕から飛び出していた。そのグログロしいさまを見た保健の先生は、「おえええ」と口を押さえながら救護用テントから去っていった。いくらなんでも失礼すぎるだろう。折れた腕の痛みに絶叫しつつ、ぼくは思った。体育祭当日、組体操の人間タワー的な最終演目でのアクシデントである
若かったわたしの過ち。
昨年末に痛めた膝が、ほぼ復活した。
けっきょくあの膝の激痛はなんだったのだろう。整形外科医は「老化」だと言った。しかし老化であれば昨年末より現在のほうが進行しているはずで、老化「だけ」とは言えまい。それに老化なんてネガティブなことばは使わずに、せめて「加齢」と言ってほしかった。そこに「老い」の字をまぜてほしくなかった。
メガネ屋さんの店員だったころ、会社の販売マニュアルに「老眼鏡ということばを
問うこと、問われること。
訊かれたならば、答えなきゃいけない。
たとえばイチローさんに対して、どこかのインタビュアーが「あなたにとって、野球とは?」と問いかけたとする。これがイチローさんであれば「そういうつまんない質問はやめましょうよ」くらいのことを返すかもしれない。しかしながらほとんどの選手は(内心くだらない質問だと思いながらも)「……人生、ですかね」みたいなことばを返す。月並みな質問を投げかけたのが自分であることを棚
試し読みではなく、立ち読みなのだ。
立ち読みについて、あらためて考えた。
思えばおとなになってから、立ち読みというものをあまりしていない。職業柄、本屋さんに足を運ぶ機会はそれなりに多いほうだと思う。そして行けば当然、さまざまの本を手に取る。手に取ったならばもちろん、中身を読む。しかしながらこれはぼくのなかで立ち読みではなく、品定めである。買うに値する本なのか、念のための確認をしているだけだ。そして「立ち読み」とはもっと、無目的とい