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距離の違いと、フォームの違い。

抱えていた原稿のひとつに、区切りがついた。

原稿用紙15枚程度の、短い原稿だ。とはいえ、その短さが執筆を楽にしてくれるわけではない。むしろぼくの場合、短い原稿ほどあれこれ悩み、苦労することのほうが多いくらいだ。

短い原稿の、なにがむずかしいのか。これはもう「一文の重み」としか言いようがない。ひとつのパラグラフを変えるだけで、いやひとつの文を変えるだけで、短い原稿は容易にその全体像を変えてしまう。これはハンドルに遊びのないレーシングカーを運転しているようなもので、少し操縦を誤るだけで大事故につながりかねない。

そして短い原稿では、あたりまえのように「書けること」の量が限られている。とくに紙媒体においては一文字単位での取捨選択を迫られることもしばしばで、ひどく神経が疲れる。

しかも「書けること」の量が限られているからといって、リミットいっぱいまで情報を詰め込んではいけない。そんなことをしてしまうと、読みものとしてのおもしろさが激減する。たとえるならそれは、四角い木枠にごはんを詰めてこしらえたおにぎりだ。おにぎりはやはり、人の手で握った不揃いな三角形であるからこそおもしろく、またおいしい。短い原稿にも自家製おにぎり的な不格好さが、せめて一文でもいいからどこかに必要なのだ。「なぜにここでそのたとえ話?」「この寄り道、いる?」みたいなデコボコが。そのへんのバランスを見極めつつ、限られた紙幅で文章をまとめていくのは、やはりむずかしいものである。

他方、原稿用紙数百枚におよぶ本の原稿では、ハンドルはゆるゆるである。多少の脱線は許されるし、減速する箇所があってもかまわない(むしろあったほうが望ましい)。必要なのは全体を見渡す構成力と、道に迷わないだけの論理的思考力、そしていつ終わるともしれない道を淡々と走り続ける気力と体力だ。

短距離走が得意な人もいれば、長距離走が得意な人もいる。両方のレースにエントリーする人も多いだろう。ぼくが気をつけているのは、短距離走のフォームで長距離を走らず、長距離走のフォームで短距離を走らないことだ。ふたつはまったく別の競技なのである。