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書き写すことの効用。

あのアドバイスは、いまも語られているのだろうか。

ぼくが中高生のころ、作文や小論文のお手本として「天声人語」を読みなさい、という話をよく聞かされた。父親が巨人ファンだったわが家はもっぱら読売新聞を購読していて、当時はインターネット(つまりは新聞の電子版)もなく、「天声人語」を確かめることができない。なのでぼんやり「そういうものなのかなあ」くらいに思っていた。

天声人語がいいとか悪いとかはさておき、なんらかの「お手本」を示す人の多くは、ひとつ勘違いをしている。天声人語を毎日読み込み、ときに書き写し、仮にああいう文章を書けるようになったところで(実際にはならないんだけど)なんの意味もないのである。

以前本にも書いたことだけれど、だれかの文章を書き写すこと(俗に言う写経)は「その人みたいになる」ことが目的なのではなく、「自分の文章を知る」ことが目的なのだ。

たとえばぼくが、天声人語なら天声人語を書き写す。「すごいなあ」「うまいなあ」「物知りだなあ」「こんな文章書けるようになりたいなあ」なんてことは思わない、さすがに。ただ「あっ。ここで読点打つんだ」とか「ここにその話入れるんだ」とかは思う。驚きというより、ある種の違和感をおぼえる。ここでの違和感は、事実認定や文法上の誤りに対するものではなく、「おれならこう書くのに」とのギャップだ。

そして「おれならこう書く」も、「あの人はこう書いた」も、どちらが正解というわけではない。そりゃあ、ぼくの「こう書く」と、たとえば古井由吉の「こう書いた」のあいだには雲泥の差があり、どう考えてもあちらのほうが表現に優れている。けれどもまず、「こう書いてしまう自分」を自覚することが、書き写しの出発点にしてもしかするとゴールである。どれだけ懸命に書き写したところで、ぼくは古井由吉にはなれない。

ときおり「影響されるのがやだ」と言って読まなかったり、書き写さなかったりする人がいる。安心してほしい。たとえ影響されたとしても、「あの人みたいになる」はぜったいにないから。なれっこないから。なれないまま、不格好な自分がどこかに残るんだから。その不格好な自分(うまくいけば個性)を知るためにこそ、模写や書き写しは大切だと思うのである。