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問うこと、問われること。

訊かれたならば、答えなきゃいけない。

たとえばイチローさんに対して、どこかのインタビュアーが「あなたにとって、野球とは?」と問いかけたとする。これがイチローさんであれば「そういうつまんない質問はやめましょうよ」くらいのことを返すかもしれない。しかしながらほとんどの選手は(内心くだらない質問だと思いながらも)「……人生、ですかね」みたいなことばを返す。月並みな質問を投げかけたのが自分であることを棚に上げてインタビュアーは「月並みな答えだな」と相手を軽んじ、その記事を読む読者もまた、同様の感想を抱く。……インタビューという形式には、そうした強制性、場合によっては暴力性がついてまわる。

これは日常の会話においても、同じことが言える。

あるあるネタで言うならば空腹時、デート中の相手に「なに食べたい?」と問うことは優しさのようでいながら、思考の回避、またストレスの回避であったりする。相手から「なに食べたい?」と問われたならば、当然食べたいものを答えなければならない。しかもその場に即した、「いいねー!」と賛同を得られる、ちょっとナイスな答えを出すことが求められる。これはけっこうなストレスであり、相手の答えに対して「えー。カレーはちょっと気分じゃないなあ」などと返す質問者のほうが、ずっとラクだ。

しかしながら一方、人間に「問われたからこそ考える」という側面があるのも事実である。つまり、一定の空腹を感じてはいても、だれかに「なに食べたい?」と聞かれるまでは「腹減ったなあ」くらいしか考えていなかったりする。

そしてここでの問いが、「いい問い」「おもしろい問い」であれば、それに答えるべくはじめての頭を働かせ、はじめてのことばで自身を言語化できたりする。理想のおしゃべりであり、理想のインタビューだ。

「あの人と一緒にいると、なんか疲れるんだよなー」と不思議に思うとき。その原因は、相手の「考えることをサボるための質問」にあるのかもしれない。自分としては精いっぱい優しくしているつもりなのに相手から疎んじられるときは、自分の「考えることをサボるための質問」に原因があるのかもしれない。質問の強制性に無自覚なのかもしれない。

いちばん大事なのは、「興味もないのに訊く」をしないことだ。取材の場においても、日常会話においても。