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気が高ぶると思い出すことわざ。

小学生のころ、子ども向けの「ことわざ百科」みたいな本が好きだった。

ことわざとは、古くから言い継がれてきた格言のようなもので、多くの場合が皮肉やユーモアを含んでいる。日常生活における教訓、なるほどおもしれえと唸らされる風刺、また人生の真理と呼べるものまでさまざまある。しかし、小学生の自分にとっては「古くから言い継がれてきた」部分、すなわちむかしの日本の様子を知れるところがおもしろかった。解説のために添えられたイラストのほとんども、江戸やそれ以前の時代の人々を描いたものだった。

たとえば、弘法も筆の誤り。

小学生にはぜったいにわかりかねることわざである。まず「弘法」がわからない。弘法大師のことだよ、と教えられても弘法大師がわからない。ここは家の宗派によりけりかもしれないものの、少なくとも小学生のぼくには弘法大師がわからなかった。そして空海という偉いお坊さんだよ、と教えられてもまだわからない。偉くてかしこいお坊さんってだけじゃなく、書道の達人でもあったんだよ、と教えられてようやく合点がいく。幾重もの前提知識が必要で、けれどもむかしの人にとってその前提知識は常識で、なるほど時代の違いなんだなあ、と思わされる。

あるいは、とらぬ狸の皮算用。

むかし話にタヌキは、しばしば登場する。あたまに葉っぱをのせて化けたりする。そしてときおり「タヌキ汁にして食べてしまいました」みたいな非道の結末が用意されていたりもする。しかしながらこのことわざで驚くのは、皮である。「むかしの人、タヌキの皮をとってたんだ!」「それで儲かるんだ!」である。たしかに絵本に出てくる猟師は、毛皮っぽいベストを着ていたりする。あれもタヌキの皮なのだろうか。むかし話に出てくるタヌキには残酷なラストが待っていることが多く、子どもながらにどうも苦手というか可哀想に思っていた。「どこかでタヌキを見つけても、やさしくしよう」と思っていた。残念ながら、いまだ野生のタヌキに出会ったことはない。


そして、ない袖は振れぬ。

一見すると、読んで字の如くに「ない袖は振れない」である。タンクトップのおじさんは、袖を振ることができない。どうにも教訓の引き出しにくい、ただの事実である。しかし、そうではないと、ことわざ百科は言う。なんでもむかしの人々は、着物の袖のところに財布を入れていたらしく、すなわちこれは「ない財布は出せない」に近く、もっと直接的にいえば「ない金銭は出せない」という意味なのだそうだ。いまの時代でいうと袖は、ポケットみたいなものだったのか。でも「ないポケットは探れない」とか言っても通じないよな。当時のぼくにとって「ない袖は振れぬ」が魅力的だったのは、袖よりも「振れぬ」の部分で、いやん、いやん、とチャーミングに袖を振ってみせる仕草が想起され、むかしの人はおもしろいなあ、と思っていた。


いま進行中の本がとてもとてもおもしろいものになりそうで、今月末の締切に追われながらもウキウキしている。そして「このウキウキは、とらぬ狸の皮算用になるのかなあ」と思ったりもする。完成を楽しみにする行為自体、とらぬ狸になっちゃうのかなあ、と。

しかしながら楽しみなのだ、実際。