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2022年1月の記事一覧
むつかしい場所で、むつかしい話を。
なかなかに説明のむつかしい月曜日だ。
まず、現在ぼくは自宅とは別の場所にいる。いちおうは「ワーケーション」と称しながら、実質的には休暇をとって、犬と泊まれる貸別荘でこれを書いている。休暇をとることにしたのは、先週土曜日に「バトンズの学校」最終講義が終了したからだ。もうずいぶん前、たぶん去年の秋くらいから、学校の全日程が終わったら数日間の休暇をとろうと、この宿を予約していた。
じゃあワーケーショ
つらくなったら、唱えることば。
明日は「バトンズの学校」最終講義の日だ。
じつは、と断るまでもない話だけれども、受講生のみなさんに対してぼくは「noteを書くといいよ」とオススメしている。もちろん、強制するつもりはない。やるとしても、無理のないペースでかまわない。仕事やプライベートを優先してもらって、ぜんぜんいい。
それでも本音の本音としては、「毎日書くといいよ」と思っている。できれば3年くらい、むずかしければ1年でもいい。
もうちょっと我慢してみる理由。
カメラがほしくなっている。
犬と暮らすようになって5年と半年。この間にぼくは複数台のカメラを購入した。プロが使うような超高級モデルではないものの、エントリーモデルではあるものの、それでも立派な一眼レフ。ぼくには過分なカメラだ。SDカードに記録されゆく被写体は、ただただ犬。飽きることなく犬。犬、犬、犬。持ち腐れ感は存分に感じるし、もったいないような引け目がある一方、カメラなんてそんなもんだろ、とも
くるんでごまかすオヤジギャグ。
ズラタン・イブラヒモビッチというサッカー選手がいる。
サッカーファンにとっては語るまでもない超有名選手でありながら、一般的な知名度はそれほど高くない選手といえる。少なくとも、メッシ、イニエスタ、クリスチアーノ・ロナウドほどには知られていないスウェーデン人だ。一般への知名度が低い理由のひとつとして、ワールドカップで目立った活躍をしていないことが挙げられる。
しかしながら、少しでもサッカーが好きだ
飯テロという考え方の変遷。
いつのころからか語られる言葉に「飯テロ」なるものがある。
そろそろ世間が寝静まろうかという深夜帯、カロリー満ち充ちの食品画像を不特定多数な人びとの行き交うソーシャルメディア空間に投下する行為を、そう呼ぶ。それはカツ丼であったり、ラーメンであったり、ピザトーストであったり、ポテトチップスやアイスクリームであったりする。
言ってしまえば、ただの「うまそうな食べもの」の写真だ。それを投稿したとて、さ
提案の種が育つまでの時間。
これ以上は、踏み込めないしなあ。
どんなに関係の近い相手であれ、人間関係には「踏み込むべきでないライン」がある。たとえば、本の仕事をしているぼくは、わりといろんな人に「こういう本を書いてほしい」とか「こういう本をつくってみてはいかがですか?」みたいな話をする。それは大抵「チャレンジ」の名がふさわしいような、大変で、面倒くさい本だ。純粋に「この人の書いた、こういう本が読みたい」という提案であること
書けないときにやるといいこと。
犬だって、放屁する。
その事実をぼくは、ぺだる(サムネ画像の犬)と暮らすまで知らなかった。いや、知らなかったというよりも、想像の範疇になかった。子どものころに実家で飼っていた雑種犬は「外犬」だったため、あくびやくしゃみを目撃することはあっても、放屁の瞬間に立ち合うことはさすがになかった。それをしたぺだるを見て、「そりゃあ、するよなあ」と感心したのである。
犬がするのであれば、猫だってするだろう
わたしもここらで、変わらなきゃ。
調べてみたら、1995年のことだった。
1994年の紅白歌合戦が終了し、民放のどこかにチャンネルを変え、なんだかんだと新年を迎えた一発目のテレビコマーシャル。つまりは1995年の冒頭に当時オリックス・ブルーウェイブに所属していたイチロー選手が、「変わらなきゃ」と宣言した。日産自動車のテレビコマーシャルである。
本格的な経営危機から仏・ルノーの傘下に入り、同社からカルロス・ゴーン氏をCEOに迎え
はじめて「ネーム」に触れたときの話。
以前、ある漫画家さんから「ネーム」を見せていただいたことがある。
新連載のいちばん大事な第一話、その下書きとでも言うべきネームである。おそらくネームの描きかたは、漫画家さんによって大きく違う。かなり緻密な「下書き」を描く漫画家さんもいれば、サラサラッと人物の配置とセリフだけを描く漫画家さんもいる。ぼくが見せていただいたのは、後者のネームだった。コマ割りがなされ、人物が入る部分がマルで囲まれ、山田
それでも世のなか、よくなってるよ。
1973年、福岡県生まれ。
ぼくの著者略歴、その一行目に記される文言である。自分にとっての1973年は馴染みの深い、どこか青々しさまで感じさせる数字なのだけれども、今年が2022年であることを考えると、ずいぶんな昔だ。いまだぼくには、自分を若輩者とみなすところがある。いや、「人生の」という言葉に続けるならば圧倒的に「若輩者」だ。けれどもティーンエイジャーや20代のような、ぴちぴちした若さを持って
鍋という名の家族料理。
訪日した海外の方が、「それはちょっと」と思う日本食があるそうだ。
納豆や鮒寿司、またナマコの刺身のように、日本人の一定数も「それはちょっと」と眉をひそめる料理は、当然ある。そうではなく、日本人の大部分に愛されていながら海外の方からすると「それはちょっと」な料理があるというのだ。
鍋である。鍋料理の全般である。
テーブルの中央に置かれた鍋を、幾人もの人間が「自分の箸」でつつきまくる。「自分のね
それを追うのか、追われるのか。
仕事に追われる。締切に追われる。
これは日本語として、表現的に正しいのだろうか。気分としていえば、たしかに追われている。どんなに逃げたくても逃げおおせることのできないものとして仕事があり、締切がある。のんびり過ごしたくとも、それが許されない。追い立てられるようにして、背後でびゅんびゅん鞭が打ち鳴らされる。仕事に追われるとは、たぶんそういうことだ。
けれども実際のところ、われわれは仕事を追ってい
人生はゲーム、なのだから。
子どものころ、「人生ゲーム」が好きだった。
盆や正月に親戚同士で集まると、だいたい「人生ゲーム」に興じる数時間が設けられていた。カラフルな紙幣のやりとりやサイコロ代わりのルーレットなど、子ども向けボードゲームとしての発明も山盛りだったし、波乱万丈の「人生」を「ゲーム」だと割り切るコンセプトが、いかにも痛快だった。
しかし、ぼくが当時感じていた「人生」や「ゲーム」の意味が、このところずいぶん変化
冬のわたしが飲んでいるもの。
ホントかウソか、わからない話である。
以前定期的に通っていたマッサージ屋さんで、冷えた足を揉まれながらこんな話を聞いた。「寒い日にホットコーヒーを飲んでも、ほどなく身体は冷えていく。しかしココアを飲むと、身体のぽかぽかが持続する。冬はココアに限ります」。残念ながらぼくにはココアを飲む習慣がない。けれどもたしかに熱いコーヒーを飲んだあと、身体が底冷えするような実感はあるような気がする。「言われてみ