それを追うのか、追われるのか。
仕事に追われる。締切に追われる。
これは日本語として、表現的に正しいのだろうか。気分としていえば、たしかに追われている。どんなに逃げたくても逃げおおせることのできないものとして仕事があり、締切がある。のんびり過ごしたくとも、それが許されない。追い立てられるようにして、背後でびゅんびゅん鞭が打ち鳴らされる。仕事に追われるとは、たぶんそういうことだ。
けれども実際のところ、われわれは仕事を追っている。締切を追っている。カレンダーに記されたその期日に間に合うよう、そしてその背中を見失わないよう、ただひたすらに走り続けている。追われてなんかいない。追っているのだ、われわれは。
……という話をしようとして気がついた。もしかしたらこれは、もの書きに特有の発想なのかもしれないと。
たとえば世間一般では、「会議」や「打ち合わせ」も仕事の一部として大切にカウントされる。会議にはだいたい、30分とか1時間とかの時間が設定されている。締切のある執筆仕事と違って、全速力で走ったからといって終わり(締切)までの距離が縮むものではない。13時から14時まではあの会議があり、14時からは次の会議がある。そういう時間割のなかに、仕事が組み込まれている。「きのうサボったぶん、きょうはたくさん走ろう」とか「あしたは休みたいから、きょうのうちに走れるだけ走っておこう」とかの調整はなにもできない。もしもそういう仕事がメインだったら、そしてその時間割がぎゅうぎゅうに詰まっていたら、それは「追われる」気持ちになるだろうなあ。「追う」なんて発想は出てこないよなあ。……と、そんなふうに思い至ったのだ。
ならばこそ、である。
締切に追われる人たちよ。あなたは追われているのではない。追っているのだ。そして追うことができるってのは、案外しあわせなことなのだ。ともに追いかけようじゃないか、その背中を。辿り着こうじゃないか、ゴールの先にあるあの楽園に。
なんてことを自分に言い聞かせつつ、ここから再び「追う」作業に戻る金曜日の夜であった。