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提案の種が育つまでの時間。

これ以上は、踏み込めないしなあ。

どんなに関係の近い相手であれ、人間関係には「踏み込むべきでないライン」がある。たとえば、本の仕事をしているぼくは、わりといろんな人に「こういう本を書いてほしい」とか「こういう本をつくってみてはいかがですか?」みたいな話をする。それは大抵「チャレンジ」の名がふさわしいような、大変で、面倒くさい本だ。純粋に「この人の書いた、こういう本が読みたい」という提案であることも多いし、「いまなら書けるはずだから」と背中を押す文脈であることも多い。「いまのあなたが書くべきは、これだと思う」もある。

けれども当たり前の話として、すぐさま「じゃあ、書くか」と動き出す人はいない。ぼくの提案が当てずっぽうなのかもしれないし、面倒くさいのかもしれないし、誰かに言われて動くのが嫌なのかもしれない。まあ、人間なんて大体そんなものだ(もちろんぼくも含めて)。

じゃあ、提案やアドバイスには意味がないのかというと、決してそんなことはない。いま、ぼくは「バトンズの学校」という取り組みに全精力を傾けているけれど、「古賀さんは学校をやるべきだ」と最初にアドバイスをくれたのは瀧本哲史さんで、それは6〜7年ほど前のことだった。言われた当時、ぼくは「いやぁ、その考えもわかるんですが、そういうことじゃなくってですねえ……」なんてモゴモゴ言葉を濁していた。まるで名案と思えなかったどころか「いちばんやりたくないこと」にさえ、思えた。そして瀧本さんのほうも、これ以上は踏み込むべきではないと判断されたのか、以降その話をされることはなくなった。


ところが、その数年後に「学校をやろう!」と決意する。

やると決めたあとになって「そういえば瀧本さんも、そんなこと言ってたしな」と思い出す。

瀧本さんの言葉がずっと頭に引っかかっていたというよりも、あのとき蒔かれた種が、(まるで自分のものであるかのように)時間をかけて育っていったということなのだろう。

誰かに言われたひとつのアドバイスで人生を変えるなんて、相当に危なっかしい生き方だ。けれど、いろんな人が投げかけてくれたアドバイス、提案、アイデアみたいなものを、そしてその種を、心のなかに蓄え、じっと育てる自分は大切だよなあ、と思う。ほんとにいらない芽は、摘んじゃえばいいんだからね。