見出し画像

書けないときにやるといいこと。

犬だって、放屁する。

その事実をぼくは、ぺだる(サムネ画像の犬)と暮らすまで知らなかった。いや、知らなかったというよりも、想像の範疇になかった。子どものころに実家で飼っていた雑種犬は「外犬」だったため、あくびやくしゃみを目撃することはあっても、放屁の瞬間に立ち合うことはさすがになかった。それをしたぺだるを見て、「そりゃあ、するよなあ」と感心したのである。

犬がするのであれば、猫だってするだろう。うさぎもハムスターも、インコや九官鳥も、たぶんする。亀だって、しない理由はない。

じゃあ、魚はどうだろうか。金魚やエンゼルフィッシュは、放屁するのだろうか。ザリガニは、ホタテやアサリは、どうだろう。ミミズは、カブトムシは、ミジンコは放屁をするのだろうか。

不思議なものでそんなふうに考えていくと、まるで放屁が「仲間であることの証左」のように思えてくる。まさかの放屁が。


うちの犬なんてもう、歯みがきもするし、シャンプーもする。シャンプー後には当然、ドライヤーもかけている。いずれも本人が自発的にやっているわけではないとはいえ、人間と同じ複数のおこないが習慣となっている。

人間関係もそうだけれど、相手との共通項を見つけると、当然うれしい。親密さが増していく。けれども相手のことをおもしろく、また可愛らしく感じたりするのは、「似ているけれど、違うところ」なのだ。

なんら共通項の見当たらない人とのコミュニケーションは、むずかしい。

一方、自分とまったく同じ人間が仮にいたとすれば、それもまた疎ましい。

重なる部分と、重ならない部分。ぜったいに重なっていてほしい部分。そういう「相手に求めるもの」を考えていくと、「自分が大切にしているもの」もわかってくるのではないか。自分のことをとことん考えていくためには、やはり他人の存在が必要だと思うのである。


……犬の放屁を入口に、なにを書いているのだろうか。まあ、noteやブログの更新に困っている人がいれば、とりあえず「なんでもいいから一行書いてみる」をおすすめする。その一行を書けば、こうしてなにかの話につながっていくものなのだ。