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人生はゲーム、なのだから。

子どものころ、「人生ゲーム」が好きだった。

盆や正月に親戚同士で集まると、だいたい「人生ゲーム」に興じる数時間が設けられていた。カラフルな紙幣のやりとりやサイコロ代わりのルーレットなど、子ども向けボードゲームとしての発明も山盛りだったし、波乱万丈の「人生」を「ゲーム」だと割り切るコンセプトが、いかにも痛快だった。

しかし、ぼくが当時感じていた「人生」や「ゲーム」の意味が、このところずいぶん変化しているように思われる。

人生は、いつしか人生キャリアのルビが似合う言葉になり、ゲームは「スマートに攻略すべきもの」と考えられている。「ゲーム」の語にあったはずの偶然性やギャンブル性は完全に消え去り、「いかに着実にクリアするか」のキャリア設計が、すなわち「ゲームとしての人生」になっている。

で、語れるほどの人生も歩んでいない自分だけれども、少なくとも仕事にかぎっていえば「計画」からはみ出したときにようやく、それはおもしろくなる。計画を立てること、また設計図を引くことは大事だけれども、ただ図面をなぞるようにつくられたコンテンツはおもしろくないし、やってる本人もつまらない。偶然を受け入れる余地を自分のなかに持っておかないと、常に自分以下のコンテンツしかできないのだ。そして精緻な設計図とは、びっくり仰天な偶然を呼び込むためにこそ、引かれるものなのだ。


おそらくは人生についても同じことが言えるはずで、「いかに着実にクリアするか」なんてことを考えていたら、身動きとれなくなってしまうんじゃないだろうか。ギャンブルに打って出ようぜ、なんてことは言えないけれど、やっぱりゲームってのは「クリアするもの」である前に「たのしむもの」であると思うのだ。