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2018年10月の記事一覧
「今から村に帰ります」と言った瞬間、僕は
夜の6時とか7時。
東京で打ち合わせや取材が終わって「じゃあ帰ります」と言うと、「今から村に帰るんですね」と返されることがある。僕が信州の村に移り住んで、そこから出て来ていることを相手が知ってるからだ。
「そうですね。今から帰りますよ村に」
だいたい笑いながら僕もそう答える(というか、その通りなのでそうとしか言いようがないのだけれど)。
すると、「今からほんとに村に帰るんだ!」というニュア
浅生鴨さんに会ってきたかも(その5)今のネットはクリーンすぎるから
迷子の秋に重版出来!浅生鴨さんの新刊『どこでもない場所』の周辺に漂っているものたちが気になって始まったインタビュー。今回はネット時代と世の中に必要なノイズについて。前回はこちら。
あれはたしか2000年前後だった。インターネットの時代が本格的にやってきて、これからは誰もが発信者になることができ、これまでなら陽の目を見なかったニッチなものや人にもスポットが当たるようになり、きっと世の中は大きな力を
身体の使い方も知らないで生きてた
知り合いの農家さんに稲わらをわけてもらった。畑にすき込んで肥料にしたり(地温が高い間にやらないと分解されない)、マルチ的な敷わらに使うのだ。
自分で稲作はしていないので、田んぼをやっていて、いつもふみぐら家がお米も買わせてもらっている農家さんから稲わらをもらうのである。
Sさんは田んぼも畑もやっていて、どちらも農薬・化学肥料を使っていない。いわゆる国の「持続農業法」(この法律もあまり知られてな
ライターが新聞記者の取材を受ける側になって困ったこと
ひょんなことから新聞の取材を受けることになった。地方紙ではあるけれど、こっちではメジャー紙である。困った。
もの書きだろ? 取材なんかいつもしてるじゃん。なにを困ることが、と思われるかもしれない。自分だって思う。
だけど、取材をするのとされるのとでは、同じようで全く違う。魚のカレイとヒラメぐらい違う。
世の中的には(とくにネット界隈では)新聞なんてオールドメディアで、シルバー世代しか読んでな
ネットの店とリアルな「市」が残る時代
地元のイベントでスタッフというかお手伝いをした。
パーリ―みたいな人の集まりは苦手だけど、緩い感じのイベントで適当に自分の役割があって、適当に来てくれた人としゃべって、サポートしてというのは嫌いじゃない。
人生のベテランの域に達した女性手しごと作家さんたちの、作品展示販売をする“手しごと市”のイベント。その中ではまあまあ若手の力仕事も含めていろいろ動ける人間がいると力になれることもあるので。
築地市場の消滅と僕たちの「閾」(再放送)
これは2016年4月26日に公開した記事のリライト再放送です。今日、築地から移転した豊洲市場が開場。いろんなあれやこれやが持ちあがってますが、この記事には特にその辺りの主義主張も問題提起もお役立ち情報もありません。薄っすらと市場的な場所に縁があった人間として「感じた」ただの雑記です。
市場の舞台袖が好きかもしれない。また変なこと言ってますが、好きなものは好きなのだからしょうがない。
舞台袖って
今日は死ぬのにもってこいの日
うまく消化できていない個人的な死について書いたnoteです。
読みたくない人もいると思うので有料にしています。
何かしらことばにして整理するための個人的な
記憶みたいなもの。
死はいつも突然やってくる。どれだけ医療的なものが進化がしても、余命幾許かを正確にカウントダウンなんてできない。そう、人はある日この世から旅立つし、それは本人も周りも準備ができてるかどうかもわからない。だいたい死を迎えるため
もし世界中のことばが動画だったなら
文字になったことばは遅いなと思うことがある。リアルタイム性がないのだ。情報伝達という次元においてではなく、多様で多次元な意味をもたらすことばの世界の話。
たとえば「台風のため運休」みたいな情報としてのことばは、単に事実のみを伝達しているので目に触れた瞬間に受け手との間で関係性が完結する。
「台風のため運休」による悲喜こもごも(※注 悲喜こもごもは本来、一人の人間の中で錯綜する心情を指すことば。
浅生鴨さんに会ってきたかも(その4)世の中はほとんどハズレだから
プロの迷子(!)浅生鴨さんの新刊『どこでもない場所』の周辺に漂っているものたちが気になって始まったインタビュー。今回は、意外にそうかもしれない目からウロコの仕事論。前回はこちら。
受注体質――。渋谷で100人に「浅生鴨さんと言えば?」とインタビューしたとき約8割の人が「受注体質」と答えたのは有名な話だけど、まあそれぐらい「やりたくてやったことはない」と言い切れるのが浅生鴨さんだ。
そもそも、今