騙されたと思って神になってみて?

その劣等感、わたしが人間社会に暮らす人間だからじゃない?

 いままでの記事で、価値観や劣等感、自分軸についてかなりねちっこく書いて来たのだけれど、そもそもそう言うことで悩むのってわたしが〈人間社会に暮らす、人間の視点で生きている生物〉だからではないか? と思い当たったので忘れないうちに書き留めておく。
 人間だから人間社会に暮らしているのは当たり前だし、人間だから人間の視点しか持ち合わせていないのも当たり前だろう、おまえは野良猫に変化して激しい縄張り争いの実態を体験でもできるのかい、とほうぼうから突っ込みの声が投げかけられる。まあちょっと待ってくれ。

AはAでしかないし、BはBでしかない

 最近あたたかくなって来たから、道の隅っこや壁面沿いに蟻の行列が見られるようになった。この行列の中に、例えばダンゴムシの死骸を一生懸命に運んでいる蟻がいたとして、「この蟻は頑張っているからボーナスが弾むね」と思ったりはしないだろう。
 レゴで街を作るとき。シルヴァニアファミリーのリスの一家の日常風景を赤い屋根のお家に描き出すとき。ウルトラマンたちを怪獣と戦わせるとき。職種や家庭内での役割こそ宛てがえど、ヒエラルキーの中に彼らをおくことはしないし、妬み嫉み羨望と言った感情を抱かせることもしないだろう。おとなたちからそうやって遊ぶように言われたからかもしれないし、当時の年齢を鑑みるに、単純にまだそう言った類の感情に対して疎いだけであったのかもしれない。
 では、成人したいまならどう遊ぶだろう?
 大役を成し遂げ、宇宙から無事に帰還しその栄誉を称えられる──わたしはそのレゴ人形を称えるだろうか、羨むだろうか、妬むだろうか。しないと思うし、まずレゴ人形に賞賛を送ったり嫉妬したりしている自分の姿を思い浮かべることができない。だってレゴはレゴでしかないから。自分との間には偏差値の差も年収の差も身分の差もないから。

同じ視点を持つと感情移入できる

 物語を辿るとき。一人称の語りである場合、それが人間でも犬でも猫でも虫でも川でも山でも、自分の気持ちを乗せることができる。付き纏って来るやつがいたら振り払って鉄拳を食らわせてやりたくなるし、肉体的なちからだったり言葉だったりを行使して上から押さえ付けられたら苦しくて堪らないし、大好きなあの子の下駄箱にラブレターを忍ばせるのにこれ以上ないくらいどきどきしたりする。外側から眺めているだけでは物事の本質は掴めない。他者と視点を共有して初めて、自分とまったく違う環境にいるひとの心がわかる。

蟻の世界を人間の世界に置き換えて

 今度は神の手のひらに宇宙が収められているさまを想像してほしい。神なんて本当にいるかわからないけれど。先ほどの立ち位置で言うと、蟻の世界を人間の世界に、自分を神に置き換えればいい。広すぎて収拾がつかなくなってしまっている宇宙の中に、ぎりぎり視認できるレベルの大きさの地球がある。わざわざ双眼鏡で人間の生活を覗き見る気にもなれない。だって、人間は人間でしかないのだし、個体の差とか言われてもよくわからないし、正直そんなの見分けられたところで自分(神)に関係ある? ないよね。

劣等感の無限ループから抜け出せる?

 囚われる理由がわかったのだから、そこから抜け出す方法もあるのでは? とついつい期待に胸を膨らませてしまうけれど、そんなものどこにもない。ドラえもんのどこでもドアを現実に作るより難しいと思う。いくら広く視野を持ったところで決して人間以上のものにはなれないから。死んだあとどうなるかわからないけれど、少なくとも生きている間はずっとこのままだ。
 もし100歳まで生きるのなら、わたしはあと75年弱。きつい。つらい。むり。
 わたしはちょうじんになりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?