80億通りの価値観

「申し訳なさ」とは24時間365日いっしょ

 世の中「おとなになったら経済的に自立していて当たり前」と言う価値観が根強い。その社会の常識にあんまり当てはまらないわたしは、ごはんを食べるときも、外に出かけるときも、お風呂に入るときも、寝付くときも、何とも言い表せない申し訳なさを抱えている。作業をしているときも、「はやく実になれ、はやく実になれ」と念じている。そんな簡単にお金になるのなら、もうみんなこぞってやっていることだろう。成果になるまでとかく長い。それで安定した収入を得られるようになるまでもっと長い。世の中そう甘くない。まだ四半世紀とちょっとしか生きたことがないくせに、何を一丁前なことを言っているのだ、わたし。ふむ。

不安はチャンス

 不安。不安を抱えているとストレスが溜まる。不安でいるあいだずっと恐怖に晒される。できればあまりお近づきになりたくはない。けれど、自分を侵す恐怖から逃れようと人間は必死になって努力をする。不安になることは、技術面においても精神面においても、自分を成長させる絶好の機会なのだ。この際とことん自分に磨きをかけてやろうではないか。

エゴサは時間の無駄

 あまりに長く恐怖に晒されていると、肯定的な意見や同じ状況のひとを探してネットの海をさまよい出す。これは、自分が多数派であることや、画面の向こうの知らない誰かに「大丈夫だよ」「悪いことじゃないよ」「ひとそれぞれだから」と言ってもらうことや、仲間がいると認識することなどにより、安心感を得ようとしているがゆえの行為なのだ。わたしは〈働いていない 悪い〉〈20代 働いていない 甘え〉などのワードを検索にかける。わたしと同じように、その場しのぎの安心感を得ようと航海の旅に出るひとは少なからずいるらしい。掲示板やブログに、その痕跡が多く残されている。

 自分のことを真面目だと自賛するようで恥ずかしいのだが——ほとんどの生徒が私服同然にまで制服を着崩している学校にあって、最後まで規則にのっとった服装をしていたのだから、このくらい言っても許されるだろう——わたしは自分を(比較的)真面目な人間だと思う。この行為をするひとは総じて真面目なのではないだろうか。そして自分に自信がない。不安に駆られていないひとはそもそも上記のような言葉を検索にかけたりなんてしない。
 心の安寧を求めて航海の旅に出るも、皮肉なことにネット住民は言葉が乱暴であることが多い。投稿をしている本人は相手を傷付ける言葉遣いをしていることに気が付いていないかもしれない。あるいは自分の打ち出した言葉がひどいものだと理解していながら、ストレス発散のはけ口にしているのかもしれない。「働いていないなんてお気楽でいいよな」と八つ当たりをしているのかもしれない。彼らは、まさか自分のIPアドレスの公開を求められることになろうとは夢にも思っていないだろう。もちろん、的を射たアドバイスをしているひともいるが、ごくわずかだ。

 では、不特定多数の書き込める掲示板ではなく、企業のホームページならどうだろうか。実を言うとこれも、掲示板の書き込みとさして変わらない。言葉が乱暴だから傷付くのではなく、彼らのターゲットとする人物像に自分が当てはまっているから傷付く。転職サイトや求人サイトのターゲットは、定職に就いていない20代後半から30代前半の若者。彼らに向けて「もう後がないぞ」「ここが最後の砦だぞ」「ここを逃せば死ぬまで不幸だね」と不安を煽る。逆に、自己啓発ブログや病気と付き合いながら社会復帰を目指すひとのための交流サイトなどでは、「やるべきことをきちんとこなしていれば大丈夫」「気持ちが焦るとそれがストレスになって逆に体調を崩すよ」「最初は40パーセントのちからで」と、あくまでも自分のペースを守ることが重要なのだと説いてくる。

 ネットには、いろいろな思想や目的を持ったひとたちがいる。長い年月をともに過ごしてきた者同士でも、価値観が100パーセント合致しているわけではない。まったく同じ意見のときもあるし、そのことに抱く感情は端的に言ってしまえば同じだけれどわずかにニュアンスが違ったり、逆にどうやったって相容れないときもある。ひとの数だけ価値観がある。ネットをふらつくと言うことはすなわち、この世界の80億の人間=80億通りの価値観にもみくちゃにされる、と言うことだ。他人と自分を比べて劣等感を抱いたり、他人の意見に左右されて不安になったりするわたしのような自分軸の定まっていない人間は、ただただ疲弊してしまう。


完結している物語を指針にする

 ネットをさすらって、結果、救いの言葉に出会えるかもしれない。けれど、随時アップデートされる情報や仕掛け人の思惑に翻弄されて疲弊してしまうのなら、ずっと昔に完結した物語に触れてみるのがいい。偉人の自伝や、彼らの生涯を記した書物、哲学書やことわざ辞典。他人の人生を覗き見るのは、背徳的でありながら未知と遭遇するとき特有のわくわくがある。ヴィンセント・ファン・ゴッホは弟からの仕送りを頼りに生活をしていたし、フランツ・カフカは結婚が調いそうになると尻込みをして婚約者を振り回したし、スペイン・ハプスブルク家はその血を守ることに固執するあまり逆に断絶してしまった。歴史に名を残したひとや高貴な身分のひとが「誰もが羨む人生」を送ったかと言えば、意外とそうでもないのである。崇高に思える彼らもあくまでひとであり、不安にかられたり、誘惑に負けたり、おちゃらけたり、見栄を張ったり、笑いものにされたり、恋をしたりもしただろう。
 そう考えるだけでちょっぴり体の強張りがほぐれた気がしないかい。

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