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06【針箱のうた】娘時代1927~1937(昭和2~12)年(2/2)


神田の質店へ女中奉公

フク 
そんなことで子爵邸には1年もいなかった。今度は神保町の質店へ奉公した。私が東京生まれだったので、ぼっちゃん付の女中にしてくれた。あの頃はチリ紙を使わせないでハンカチで鼻をふかせていて、それを洗うのが一番いやだったけど、他に用はなかった。ぼっちゃんが昼寝をしているときはお裁縫をしていればよかった。
月給は子爵邸のときが3円50銭で6円まで上がったけど、仕事ですぐにひざのところが擦り切れてしまう銘仙の着物を買うのがやっとで、6円じゃあとてもいられなかった。質店に行ったら私はとてもご主人に喜ばれた。最初の月給が10円だった。どこに行くにもぼっちゃんが私を連れてけといったので、天丼は食べられるし、子爵邸とは違ってお風呂にもちょいちょい入れた。
お昼ちょっと過ぎに大旦那さんと大奥さんが市川の別荘から店に来る。若奥さんは毎日のように「大旦那さんが来る前に早くご飯を食べるように」と店の者たちをせっつく。どうしてかというと、ぼっちゃんには鯛とか平目をおかずにつけていて、店の者にはしゃけとか鱈を出しているのを見つかると若奥さんが大旦那さんに叱られるからだ。「このしゃけや鱈を息子に食べさせたか!」といわれて若奥さんは仕方なく「召し上がりました」と答える。旦那さんは「うそをつけ!」といってお皿をみんな放り出してしまう。「息子にも食べさせないものを、人さまの大事な息子さんや娘さんをあずかって働いてもらっているのに、四切れ10銭位のものを何故食べさせるのだ」とどなる。だから奉公人たちは大旦那さんが来ないと皆がっかりしたね。
でも夜10時過ぎにならなければ自分の洗濯はできなかった。あるとき奥さんが留守だったので昼間私が自分のものを洗ったら、私が良くされているので台所の女中さんに告げ口をされた。それでとても居られなくなってしまって、ここも1年位で辞めて帰った。

はんぺんと藪入り

フク 
この奉公中に忘れられないことがある。昭和10年(1935年)頃だったと思うけど、正月の16日は本当に待ちに待った藪入り。私が家に帰るといとこが遊びに来ていて、家中で大きな1円の寿司をとって食べて、小遣いを持たせて帰した。空の大きな寿司桶を前にして、義母が私が好きだからといって5銭のはんぺんを1枚出した。それを見ていた父が「親戚の子には寿司をとって小遣いをやり、家の娘には5銭のはんぺんか!」といってお膳を引っ繰り返した。そして父は自転車に乗って本所から日本橋の三越の前の半茂まで行って25銭のはんぺん10枚と、二の橋で甘納豆を50銭買って来てくれた。この夜は家に泊まれなくなってしまって、その日のうちに奉公先に帰った。

2・26事件

フク 
質店を辞めてから又裁縫とお産の手伝いの生活に戻った。昭和11年(1936年)の2月26日、雪の日だったけどお師匠さんの家に行ったら、そこのおばあちゃんが「山本さん(フク孫註:フクの旧姓)、今日は怖いからすぐ家に帰って下さい。お弟子さんは誰も来ないんだから。電車通りはあんなに兵隊が通っていくし」というから家に帰った。

H 
おじいちゃん、おばあちゃんからフク孫までの家族の個人史年表を作ったのでちょっと見て。(フク孫註:この年表は底本にも掲載されていない。)

フク 
うん。

H 
社会の動きと個人史を簡単に年代別に書き込むようにしてあるんだ。

フク 
本当はこれも私が書かなきゃいけないんだけれど、すまないね。

H 
いやいや、この位の事はさせてもらうよ。楽しい作業だし。
お母さんがお産の手伝いに行かされたり奉公に出た10代半ばから20代前半までの時代は、世界恐慌の後で日本は「大陸進出」と軍需景気に沸いた時代だといわれている。昭和6年(1931年)に日本軍の陰謀によって「満州事変」が起こされて、その翌年「満州国」を樹立して、中国への侵略をさらに進めた。15年戦争の開始にあたるんだ。この辺のことで何か覚えている?

フク 
何も覚えていないねえ。家には蓄音機はあったけどラジオはなかったし、女が新聞でも読もうもんなら父親に怒鳴られた。けれども幾度か鈴を鳴らしてまいて歩く新聞の号外は読んだね。昭和8年(1933年)に皇太子が生まれた時などすごかったよ。あとは社会のことなどほとんど分からなかった。

H 
大正デモクラシーと呼ばれた時代を過ぎて、不自由で苦しい生活を変えていこうとする民衆のたたかいが大きくなり、それが女性を除いてではあったけど昭和3年(1928年)の普通選挙を実施させたと思うんだ。労農党なども立候補して政党政治が始まるかに見えたんだけれども、政府の弾圧と軍人を中心にした暗殺や反乱軍の発言権が強められて、政党政治は中絶してしまったんだって。昭和7年の5・15事件やお母さんのいっていた昭和11年の2・26事件がそれなんだ。テロや弾圧に打ち勝つというのは大変だもの。この頃から政党人では軍を批判する人がほとんどいなくなり、作家は日本主義を唱える人が出たり、共産党幹部でも「転向」を声明する人が続いたりしたんだって。こう考えてくると2・26事件というのは、日本のアジアへの侵略戦争態勢をっくるのに加速度を与えた事件だったとぼくは思うんだ。

「爆弾三勇士」

H 
もう少しその時代のことを聞かせて。

フク 
「爆弾三勇士」のことははっきりと覚えてるね。

H 
年表を見ると昭和7年(1932年)のことだね。

フク 
この時も新聞の号外がすごかった。チンチン、チンチンと「号外!号外!」と叫びながら鈴を鳴らして町中を配って歩いた。家族や近所の人たちはみんな「偉い。大したもんだ」といっていた。私もそう思った。

H 
人の噂話というのは今でも恐い面があるものね。

フク 
うん。だから関東大震災の時私は、朝鮮人は恐いと思い込まされてしまった。

H 
女は新聞を読むと叱られる、おかあさんの家にはラジオもない、というとあとは町の噂話だもんね。情報の窓口が本当に狭いし、その上に誤った情報を流されたということだね。「爆弾三勇士」の話は上海で戦死した三兵士の話が拡大美化されて、雑誌や映画演劇、はては歌舞伎にまで取り上げられたと歴史の本に書いてあった。こんな大仕掛けで宣伝されちゃあ、信じてしまうよねえ。丁度3月1日の「満州国建国」に前後して、この「爆弾「三勇士」の話が日本中に流されたんだ。

フク 
「満州国建国」の時も大変だった。「満州国」の皇帝が来るといってねえ。日本の皇室からお嫁に行った人がいるじゃないの。「万歳、万歳」で凄かったことは覚えている。

娘時代の楽しかったこと

H 
これで結婚前までの話は一応終わるんだけど、楽しかった思い出は?

フク 
裁縫学校の友だちと歌をうたって歩いたこと。浅草の大黒屋の天丼をみんなで食べに行ったこと。その他にはあんまり楽しいことはなかったねえ。あとはお裁縫をしている時かな。暮れなんか羽織と着物を1日に2枚ずつ縫ったね。カフエのお姉さんの着物もよく縫った。お店でお酒をひっかけられると人絹の着物は縮んじゃうから、すぐ縫い直しに来る。縫い賃は50銭位だけどすっとばして縫えるからね。縫い物をしていれば義母も何も言えなかった。朝早くから縫って、くたびれればドタンとひっくり返って休んで、又起き上がって縫って……

H 
雑誌や小説なんか読まなかったの?

フク 
小説なんか読ませてもらえなかった。父母が見ていたのをそっと盗み読んだのが「忠臣蔵」だった。夜2色の電気でそっと読んでいると、義母が「電気がもったいない」と消してしまう。そうすると見られない。そんなもんで、娘時代楽しいということは殆どなかったね。

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