05【針箱のうた】娘時代1927~1937(昭和2~12)年(1/2)
裁縫女学校入学
H 小学校を卒業したのは?
フク 昭和2年(1927年)3月だね。小学校のハセガワ先生が、山本さん(フク孫註:フクの旧姓)は手の先が器用だから裁縫学校に上げた方がいいでしょうといった。私は大妻女学校に行きたかったけど、両親は電車賃がかかるから行かせなかった。表面上は大妻は試験があるからお前じゃあ無理だと両親はいっていたけど。
H その頃家はもう貧しかったの?
フク 義母があまり商売が好きではないらしく、大震災以降は商売が小さくなる一方だったね。長屋を建て直して家賃で食べていた。それで近くの3年制の深川の裁縫女学校に入学した。本所から深川まではけっこう距離があったけど、歩いて行かされた。裁縫学校へは高等小学校を卒業した人も、小学校を卒業した人も入る。小学校を卒業しただけの私たちは、今まで知らなかったセンチメートルを覚えるのがやっと。ABCも分からない。高等小学校を出た人は勉強はよくできる。同姓の山本さんはそういうことで勉強がよくできた。運針をやらせたりすると私が一番だった。私たちを見ていた国語の先生が「ここの組には山本さんが二人いる。間違ったら大変ですよ。ひとりの山本さんの勉強を忘れて、もうひとりの山本さんの裁縫を忘れたらゼロです、丙です」といった。
入学して1年間位は月謝を出してもらったけど、あとは全部自分の縫い賃で月謝を払った。子供の着物なんかよく縫い直しをするでしょ。義母が私の練習に、もちろん安い縫い賃をもらうのだけど、近所から着物を借りてきてくれる。義母が洗い張りをしたものを私が縫い直す。このことは義母に感謝するね。
友だちのこと
H
友だちはできた?
フク
友だちと付き合うと、父に叱られる。
H
どうして?
フク
友だちと付き合うと、他人のことをあれこれするからということで。
H
よく分からないな。
フク
友だちはいたけど、付き合えないの。同窓会も1度もやってもらえなかった。小学校の同窓会は50銭かかるでしょ。絶対に父が握りつぶした。「あら、フクちゃん、どうして来なかったのよ」と友だちがいうから、私は「あら、あったの」といった。
H
何でなの?
フク
お金がかかるからでしょ。
H
それほど貧乏だったわけでもないでしょ。
フク
どうだか知らない、私は。友だちを家によぶこともできなかったし、友だちの家に行っても叱られた。言葉は悪いけど、ずいぶんと意地の悪いじじいだった。
針箱のうた
H
昭和5年(1930年)に裁縫学校を卒業してからは?
フク
小学校の先生の奥さんがお裁縫の先生をやっていて、そこに通うようになった。そこで初めて友だちができた。浅草の革問屋の娘さんだった。お正月にみんなでよばれて行ったの。友だち同士ででかけるなんて私は初めて。それまで私は百人一首もかるたもとったことはなかったし、トランプも知らなかった。よくはできなかったけど楽しかった。みんなで仲見世へ行こうといって、天黒屋へ行って50銭の天丼を食べた。このおいしさといったらなかった。天丼にはハンケチがおまけについていて、私はこのハンケチをいつまでも持っていた。
裁縫は好きだった。先生に何も聞かないで1日もかからずに四ツ身の着物を縫ってしまったら、先生に山本さんはもう来ないでいいといわれてしまった。教えることはないといわれてしまった。それでは困るから、すみませんでしたと謝って置いてもらった。
H
針箱とお母さんは、その頃から離れられない関係なんだね家計の苦しさを、その針箱が幾度となく救ってきているものね。
フク
一着を仕上げるというのは楽しいこともあるんだよ。先生のところに来ていた友だち3人で、その頃流行していた「丘を越えて」という歌をよく歌った。3人で肩を組ながら歌って歩いていたら、せっかく楽しかったのに、近所の人が父に告げ口をした。不良のような真似をするなとすぐ叱られた。
初恋
H
初恋の人は?
フク
家の近くにT酸素という会社があって、住み込みの社員の人だった。それがいい男でねえ。その人が金魚の蘭虫を育てていた。父にそれを見てくれとよく持ってきた。ふたりで蘭虫について話していると、私は娘心にうれしくて、ニコニコして側に寄るわけでもないけど見ていた。T酸素の台所をしているおばさんが、裏の八百屋のみっちゃんが、これがいい女なんだけど、同じ相手に恋文を書いてきたよと教えてくれた。腹が立って仕方がなかった。顔には出せないけど、あのみつめ、と思った。きりょうも字もみっちゃんにはかなわなかったけど、これが初恋だね。
H
初恋の人はみっちゃんと一緒になったの?
フク
ならないならない。私が奉公に行っている頃、肺病で死んでしまった。
H
当時は肺病というのが多いんだね。
フク
結核は怖くてねえ。若くて死ぬ人が多かった。みっちゃんのその後も知らない。
裁縫とお産の手伝い
フク
それから裁縫の先生のところに通いながら、1ヶ月位の住み込みでお産の手伝いに行かされた。いちばん最初が父親の親戚で世田谷の豪徳寺の家だった。いやな家で泣いて帰りたくなって、電車が走ると一緒になって私も走ってねえ。おむつの黄色いのがとれないと何回でも洗い直させられた。本所は水道だったので井戸水を汲むのも私には大変だった。人指し指にバイキンが入って腫れあがっても医者にやってくれなかった。痛くて痛くてしょうがなくなってようやく医者にやってくれて、役に立たないからといってその家のおばあちゃんに送られて家に帰ってきた時の嬉しさといったらなかった。でも指が治るとすぐ亀戸の親戚のお産の手伝いに行かされた。義母が私を家に置きたくなかったんだねえ。それが終わると又だというから「いやだ、お裁縫を一生懸命やるから」といって、家からお師匠さんの所へ行かせてもらった。お師匠さんも私を離したくなくて、他のお弟子さんの手前は私が持って来た着物にしておいて、お師匠さんの方が縫い賃がいいから、お師匠さんが仕上げたことにしたの。17~8歳の頃までそんな生活だったね。
子爵邸へ女中奉公
フク
昭和9年(1934年)、18歳の頃だったね。お師匠さんのところから帰って父が家にひとりだった。「お母さんどこへ行ったの」と聞くと、「お風呂屋だよ。妹や弟も一緒だからお前も早く行っておいで」というから、あわてて風呂屋へ行ったら「あら、ねえちゃん来たの」といって妹と弟を連れてさっと出てしまった。風呂屋から私が帰ると「何もくっついて来なくてもいいのに」といわれた。けれども私は「うん」とだけいって黙っていた。
それからしばらくして父に「お前が家にいるとうまくいかないから、屋敷奉公に行ってくれないか」といわれた。それで昔大臣をやった子爵邸に御奉公にあがった。まず言葉遣いを教えられて「ごめんあそばせ。おそれいります。ごきげんよう」とやらされた。藪入りで家に帰った時父が「おっ、ねえちゃん帰って来たな。暑い暑い。ちょっと手拭い取ってくれや」といったので、しゃがんで「はい、お手拭い」と出した。その仕種を見て父が「もしも商人の所へ嫁に行ったら、お手拭いだの蜂の頭だのじゃあどうしようもない」と頭をひねってしまった。
子爵邸の食事はひどかった。朝はごはんにお味噌汁一杯、おこうこ一切。昼は残ったお味噌汁でおかずはなし。晩もおかずらしいおかずは付いたことがなかった。みんなごはんに醤油をかけて食べていた。書生や女中たちで28銭の大きなしゃけ缶を買って分け合ってよく食べた。ところが2匹の犬には毎日1円ずつ挽き肉を買って与えていた。だから女中頭で子爵のお妾さんのおよしさんが出掛けると、しめたとばかりにみんなで犬の肉を半分煮て食べちゃう。およしさんが帰ってくる時分に、肉のもう半分を犬のごはんの上にバラバラとまいておいた。
H
人間は犬以下なんだねえ。男は1銭5厘で兵隊にもって行かれるし……。
フク
小僧とか女中とかは人間の扱いはされなかったねえ。日本中どこでもそうだったけど、でも外の世界のことは知らないしそんなもんだと思っていた。
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