藤井 義允

文芸評論家。各種文芸誌などに寄稿。 「小説トリッパー」にて、「擬人化する人間ーー脱人間…

藤井 義允

文芸評論家。各種文芸誌などに寄稿。 「小説トリッパー」にて、「擬人化する人間ーー脱人間主義的文学プログラム」を連載していました。編著『東日本大震災後文学論』(南雲堂)。連絡先 plotext221@gmail.com

最近の記事

ディストピアを書き変えろ!(映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』前章)

浅野いにお『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(以下『デデデデ』)は1巻が発売当初からずっと買い続けてい追い続けた作品だったが、この度映画化をするということで見にいった。 本作の1巻が発売されたのは二〇一四年。 この時期はまだ、東日本大震災の影響が色濃く残っているときだった。もはや歴史的な出来事であるだろうが、放射能の問題や復興の問題、様々なものがどうしようもなくなっていた。 しかし、そんな危機的状況だったが僕たちの日常は淡々と進んでいったのだ。ディストピア

    • 虚構の中で、どう虚構を生み出すか――町屋良平『ほんのこども』試論

      『ほんのこども』への正直な感想は、非常に「わかりにくい」というものだ。もう少し言葉を選ぶなら技巧的な小説である。 小説家の保坂和志が本書の野間文芸新人賞の選評に次のように書いている。「『ほんのこども』だけは、問題が何なのか、小説に先んじてあるわけではなく、問題はとても錯綜していて私は説明できないが、とにかく、小説で考え、小説が考える。」「他の委員は、作品の理解に手を焼いたみたい」。ここからも、やはり解釈に苦戦を強いられていることがわかる。ちなみに言葉遣いのわかりにくさがある

      • 一人の人間として(後藤正文『朝からロック』)

        最近、訳あって音楽に関する本や記事、動画を見るようになっていた。そのため、後藤正文『朝からロック』(朝日新聞出版)も目についたので買って読んでみた。 正直なところ、最初の章を読んだときはよくある「バンドマン」のエッセイ本だと思ってしまった。ご飯のことやお酒の話、野球やサッカーへの概観など、日常に転がる些細な出来事を掬いとり、その人独自の感性を伝えてくれるような本なのだなと感じていた。そのようなタレントエッセイ本は多い。僕自身もそのような形式の本は好きな部類である。自分とは離

        • 【告知】連載評論「擬人化する人間」第9回(小説トリッパー)

          久々の更新で告知になります。 連載評論「擬人化する人間—―脱人間主義的文学プログラム」第9回を寄稿ました。今回は芸能人小説論になります。又吉直樹、加藤シゲアキを論じました。 又吉直樹、加藤シゲアキは二〇一〇年代に小説家デビューした二人ですが、共通した「芸能」という枠組みから出てきた作家になっています。 それを「芸能」というくくりから外さずに、あえて作家論として論じたものになっています。 文芸批評の世界では、テクスト論といって、基本的に作家と作品を切り離して論じるという

        ディストピアを書き変えろ!(映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』前章)

          Excel的な実存について――年森瑛『N/A』書評

           数の計算が必要となる仕事をしていると大抵Excelが必要になってくる。時には単純な足し算だけでなく、平均値の算出や数値の置き換えをしなくてはいけないことがある。その時に関数を使っていくのだが、式が合わない時がある。#REF!や#NAME?が出るときもあれば、該当なし=#N/Aと記述されることもある。    自分が(・・・)何かを誤ってしまっている。だから作り上げている式をもう一度見て何がおかしいかを考える。Excelというソフト自体がおかしいとは考えない。それは計算を行うシ

          Excel的な実存について――年森瑛『N/A』書評

          あまりに人間的なウルトラマンーー『シン・ウルトラマン』感想

          ※ネタバレ注意  空想特撮映画として『シン・ウルトラマン』が公開された。監督は樋口真嗣、また企画・編集は庵野秀明と『シン・ゴジラ』のコンビによる作品だ。公開直後の興行収入も良く、順調に客足を伸ばしており、昨年公開された庵野秀明監督『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』も相まって、話題性も高い。  内容自体は初代である『ウルトラマン』のオマージュとなっている部分がほとんどで、ザラブ星人やメフィラス星人などの当時から存在した異星体(=外星人)が登場する。舞台は現代日本だが、「

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          【再掲記事】「客観」がない現実?――神林長平『ぼくらは都市を愛していた』書評

          現在、神林長平『オーバーロードの街』を読んでいるのだが、こちらが非常に面白い。現代社会論にもなっていながら、エンタメ作品にもなっている非常に読み応えのある作品だ。僕は『言壺』に衝撃を受けた人間で、また読み終わったら『オーバーロードの街』についても感想を書こうかと思っている。 さて、そんな神林長平作品である『ぼくらは都市を愛していた』について書評サイト「シミルボン」での記事を再掲する。やはり本作も『オーバーロードの街』同様に現代社会について考えさせられる作品なのだ。 この作

          【再掲記事】「客観」がない現実?――神林長平『ぼくらは都市を愛していた』書評

          「つながり」資本の功罪――タイザン5『タコピーの原罪』書評

          現在、話題になっている『タコピーの原罪』の上巻を買って読んだ。勢いそのまま、ジャンプ+に掲載されている続きを読んで、うーむと唸った。めちゃくちゃ面白い。各所で話題になるのも納得のいくものだった。 あらすじは以下。ジャンプ+からの引用になる。(この記事を読んでいる人は大体作品を読んでいる人なので、わかるとは思うが。) 本作の主な登場人物は一匹と三人。ハッピー星人の「んうえいぬkf」、通称「タコピー」。タコピーはみんなをハッピーにするためにハッピー星から来た。彼はハッピー道具

          「つながり」資本の功罪――タイザン5『タコピーの原罪』書評

          【告知】単行本解説と連載評論書きました。

          忙しくて更新が出来ていませんでしたが、仕事したので告知です。 まず、3月7日に発売された吉田恭教『四面の阿修羅』の巻末解説を書きました。本作は「東條・槙野シリーズ」という、女性刑事・東條と探偵・槙野の二人が互いの情報と推理をもとに謎を突き止めていくものになっています。この『四面の阿修羅』で七作目で、今回は東條が鉄仮面になった原因でもある姉の死をめぐる物語になっています。 「東條・槙野シリーズ」は<奇想>と呼ばれるジャンルで、その<奇想>というジャンルをより浮き彫りにさせる

          【告知】単行本解説と連載評論書きました。

          宇野重規『<私>時代のデモクラシー』ーー連載批評「擬人化する人間」の参考文献紹介①

          ちょっと自分の整理のためにも、現在連載している「擬人化する人間――脱人間主義的文学プログラム」の参考文献で役に立ったものをnoteに書いておこうかと思う。 ……といっても、あまりに量が多すぎるので(というか、小説に関してはその作家の本ほぼすべてになってしまうので……)本文中に触れている・触れていないともかく、批評的な観点で参照した本をここに書いて少し紹介していく。興味が紹介した本をぜひ読んでほしい。(どのぐらい取り上げるかは不明だが、ひとまず不定期に上げていこうと思う。)

          宇野重規『<私>時代のデモクラシー』ーー連載批評「擬人化する人間」の参考文献紹介①

          まふまふと反出生主義について

          数年前から注目していたアーティストのまふまふが昨年末の紅白歌合戦に出場した。メットライフドームライブ、東京ドームライブと続き、大きな快進撃を見せている存在だ。 そもそも彼はニコニコ動画出身の歌い手であり、インターネットの活動を中心に、コミックマーケットでのCD販売などを経て、このような大きな存在になっていった。このようなアンダーグラウンドから大きな舞台へと駆け上がったことも僕が関心を寄せている理由でもあった。 しかし、ただ単純にアングラからの出世という意味だけで注目してい

          まふまふと反出生主義について

          【再掲記事】「わたし」がいない震災後をどう生きるか ~書評:柴崎友香『わたしがいなかった街で』~

          ※「ららほら2」が出版されたので、以前書評サイト「シミルボン」で掲載した震災後文学についての記事を再掲したいと思います。ここで扱ったのは柴崎友香『わたしがいなかった街で』です。今読んでも非常にアクチュアリティのある小説だと思います。 曖昧な「私」。揺らぐ「自己」。 このような感覚が震災後により顕著になった事象だと限界研『東日本大震災後文学論』の拙稿で述べた。一部の作家はその兆候を感じ取り、各作品に落とし込んでいる。 例えば、僕が論じた中村文則は『私の消滅』という作品を『

          【再掲記事】「わたし」がいない震災後をどう生きるか ~書評:柴崎友香『わたしがいなかった街で』~

          震災文芸誌「ららほら2」座談会に(少しだけ)参加しました。

          文芸評論家である藤田直哉さんが編集する震災文芸誌「ららほら2」が発売されました。 藤田さんは僕が大学生だったころから研究会で一緒に勉強をしていた先輩であり、文学に関する知識なども多々教わった一人です。 またその研究会で発行した『東日本大震災後文学論』はともに編著を行いました。 『東日本大震災後文学論』は研究会に参加していたメンバーたちが非常に四苦八苦しながら完成させたものです。それは推察される通り、3.11という社会的に大きな衝撃を与え、多くが「苦しみ」を伴った表現を持

          震災文芸誌「ららほら2」座談会に(少しだけ)参加しました。

          【告知】「擬人化する人間」連載6回目

          久々の投稿が告知文ですが、雑誌「小説トリッパー 2021年冬号」にて「擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム」第6回目が掲載されました。 内容は前回に引き続き平野啓一郎論です。 平野文学が書いてきた分人主義の本質とは何かを論じていきました。 多分、この連載の意図がよくわかられていないと思うので、ここで書くと、僕がこの連載で書こうと思っているのは、この先の人間のゆくえと可能性としての文学です。 そもそも僕が最初に寄稿した論文は限界研という現代文化を研究する会が出した

          【告知】「擬人化する人間」連載6回目

          告知といきさつ

          告知や発信する媒体もなく、どうしようかと思っていたので、こちらのnoteを今後使ってみようかと思います。 小説トリッパー2021年秋号に「擬人化する人間 脱人間主義的文学プログラム」の第五回が掲載されました。 表紙で使われている奥山由之さんの写真はいつも素晴らしいです。 さて、今まで僕の口から対外的な告知などをあまりしてきませんでしたが、今回で連載から一年が経過したので、これまでの経緯などここに掲載しようかと思います。 今回で五回目になる「擬人化する人間」は2020年

          告知といきさつ

          日本のくらいくらい未来を見据えて〜多和田葉子『献灯使』書評〜

           多和田葉子がノーベル文学賞のブックメーカー予想で名前が挙がったことがニュースになっていた。カズオ・イシグロといい、やはり民族性を問うたものや、多言語性というのは着目されるポイントなのだろう。 https://www.sankei.com/life/news/191003/lif1910030020-n1.html  というわけで、今回、始めてnoteに投稿してみるが、タイムリーだったので、数年前にシミルボンという書評サイトで載せた多和田葉子『献灯使』の書評の転載をしてみ

          日本のくらいくらい未来を見据えて〜多和田葉子『献灯使』書評〜