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【再掲記事】「わたし」がいない震災後をどう生きるか ~書評:柴崎友香『わたしがいなかった街で』~

※「ららほら2」が出版されたので、以前書評サイト「シミルボン」で掲載した震災後文学についての記事を再掲したいと思います。ここで扱ったのは柴崎友香『わたしがいなかった街で』です。今読んでも非常にアクチュアリティのある小説だと思います。

曖昧な「私」。揺らぐ「自己」。

このような感覚が震災後により顕著になった事象だと限界研『東日本大震災後文学論』の拙稿で述べた。一部の作家はその兆候を感じ取り、各作品に落とし込んでいる。

例えば、僕が論じた中村文則は『私の消滅』という作品を『教団X』の次に書いている。タイトルからして揺らぐ自己のテーマを彷彿とさせる作品だが、そこに描かれる内容も自己の存在の不確かさを描いたものだ。「私」が消滅し、違う人物の記憶が取り込まれる記憶改変の物語である。このように書くとSF作品のように感じられるが、れっきとした現代の話であり、ジャンルとしても純文学なのだ。最近の他の純文学の作品を見てみても、どうやら「いま」を描く際にはSF的な想像力を入れざるを得なくなっているらしい。ちなみにこの「記憶の問題」は限界研(旧・限界小説研究会)の『東日本大震災後文学論』の編著メンバーで行った共同討議では「認知症的」という言葉が出され、震災後文学に特徴的なものだという指摘もなされた。またそれは自己の揺らぎの一因であることは間違いがない。

そして中村と同様にこの曖昧な「私」の問題に取り組んでいる作品がある。柴崎友香『わたしがいなかった街で』である。

この作品は他の批評家も「震災後文学」として参照することが多い。例えば、斎藤環や佐々木敦そして加藤典洋など。そして加藤の震災後文学論が掲載されている『世界をわからないものに育てること』の中では、震災後に席巻している「感動」社会の抵抗を行なっている作品として高く評価している。感動社会とは、簡単に言えば、感動をある種のイデオロギーとして駆動する社会である。加藤は人々の情動をベースに物語が紡がれている『永遠の0』とその作者である百田尚樹の姿勢、そしてその需要のされかたなどからそれを見出していた。

『わたしがいなかった街で』は「平尾砂羽」という独り身の三十代の女性の視点(=「わたし」)から描かれる。ただそこで描かれる「平尾砂羽」(=「わたし」)は自己の一貫性を感じられない。「過去」と「現在」があやふやである。そんな中、彼女は現実のばらばらさ=揺らぎを感じている。

日々の中にあることが、ばらばらに外れてきた。
 長い間そうだったが、このところ特にまとまらない感じがする。人と話したり家にいたりテレビを見たり電車に乗ったり、勤務先でパソコンに向かって文字と数字を入力したり電話を受けたり、それから先週のことやおととしのことやもっと前のことを思い出したり、そういうことが自分の一日の中に存在するのは確かだが、それらが全体として現在の「自分の生活」と把握できるような形に組み上がっていなくて、ただ個々の要素のまま、行き当たりばったりに現れ、離れ、ごみのようにそこらじゅうに転がっている。
(柴崎友香『わたしがいなかった街で』p32)

また、この作品の書き方(=表現)もこの自己のばらつきに対応するかのうように描かれている。「わたし」が戦争の映像を見るシーンも、「わたし」の視点から日常描写をした後、そのまま視点が映像の方へと切り替わる。日常のシーンと映像の戦争のシーンはあたかも境界がないかのようにスムーズに「わたし」の視点移動を行ってしまうのである。そして、克明に描かれる「わたし」の視点から見られた映像の中の戦争と、「わたし」が過ごしている日常はどこか地続きになっているように感じられる。

男のうちの一人が携帯電話で連絡を取り、即席爆発装置(IED)の標的となる自動車が通るコースと時間を教えられた。男たちはこっちがいいあっちがいいと相談し、あるいは上層部への不平を言いながら、霧に覆われた荒野をだらだらと歩いて行った。(中略)向こう側も、こちら側も、接触すれば一瞬で死ぬ。その深刻さと、ヤンキー漫画みたいな会話との落差に、「絶望的」という言葉が浮かんできた。絶望的に、混じり合わない。あちこちでぶつかり合うだけ。
 台所のテーブルで充電器に差していた携帯電話が鳴った。有子、と文字が右から左へ流れていた。
「ごめんごめん、遅くなっちゃって」
(同上p36-37)

そしてそのような境界領域を問わず全てが平坦に、かつてあった出来事やその他の人物やひいてはモノにまで、消滅した「私」はころころと視点を変えていく。例えば、戦争の映像以外では、本作は「葛井夏」という女性の話もところどこで挿入されている。それもあたかも自分自身がそこにいるかのように表現されるのである。加藤典洋はこれを「復元話体」と呼んでいる。全ての視点が継ぎ目なく変わっていく「文体」は、どこか「のっぺり」した感覚がある。まるで「私」の意識がどこまでも水平に拡散していくような描写である。

しかし、そんな中で恐ろしいのは、加藤も述べるように「大きなもの」にのまれることだ。主体がいないということは何かの拍子にふとしたことで「大きなもの」に巻き込まれてしまう。それは全体主義の予兆でもあるのではないか。例えば、震災後に増えた「絆」や「頑張ろう日本」などのスローガンは瞬く間に拡散されていき、多くの人がその言葉にのまれていった。もちろんそのような標語は復興をする上で重要なのかもしれないが、それに協調して全体主義的な雰囲気になっていたのは見逃すことができない。作家の辺見庸は『瓦礫の中から言葉を』の中でこれを「協調主義的全体主義」と呼んでいた。それこそ共感をベースにして周りを巻き込む方法は、現在ネットを中心に散見されることである。しかしそれがエスカレートした先にファシズムが生まれるのではないだろうか。それは何かが起こる予兆がある大規模な規律や抑圧などではなく、僕たちの頭の中にするりと入り込んできて同じ方向に動かされてしまうようなものであろう。

『わたしのいなかった街で』は、自己が拡散する中で、「自分の揺らぎをそのまま受け止めながらも」この協調主義的全体主義の流れに踏みとどまっている作品だ。拡散する自己は確かに健忘的で一直線の流れもなく弱い存在である。何の経験もなく、確固たる核となるものが存在しないがために、流動的に生きざるを得ない。しかし、逆にそんな自己は軽々と日常も戦争も——映像としてだが——フラットに捉えることができ、「もしそこにわたしがいたら」という可能性を考えることができる。

例えば、本作は戦争について描かれているが、それは全て映像や日記の内容などといった資料的なものである。しかし、本来的にはそれも、「わたし」の生活においては「ばらばらに外され」、「ただ個々の要素のまま、行き当たりばったりに現れ、離れ、ごみのようにそこらじゅうに転がっている」ようなものであろう。だがそれを「思い続け」、「繰り返し、何度も、触ることができないと知っているから、なおそこに手を伸ばし続ける」(p186)ことを行うことによって、「わたし」がいなかった街でも、そこに拡散する自己を置き、「わたしがいたら」ということを考えることができるのだ。

彼女自身は戦争に対して特別の経験をしている人間ではない。だが、そんな人間でも記憶や他の人間へと視点を軽やかに飛び回り、なおかつ「かつて」を考えているからこそ、最終的に、戦争について一つの自分の考えを形成している。これこそ揺らぐ自己像を持ったままに大きな流れへと対抗する一つの道なのであろう。

そして、震災も同様だ。本書で描かれるのは2010年の8月までの出来事である。つまり本書は震災を全く描いていない。しかし、本書が現実に柴崎の手で書かれたのは2012年であり、震災後のことである。ここに本書の大きな仕掛けがある。つまり、震災も同じように「かつてあった出来事」であり、そこに「わたし」はいない。拡散する主体、曖昧な「私」がはびこる中で、震災もここで描かれる戦争と同様に人々の中で「ただ個々の要素のまま、行き当たりばったりに現れ、離れ、ごみのようにそこらじゅうに転がっている」事態に陥る可能性がある。しかし、本書は、復元話体による視点の移動によって、「わたし」がいなかった場所に、平尾と同様ころころと「わたし」を置くことを読み手は行わざるを得ない。そして「わたしがいなかった街で」「わたし」がいた場合のことを想像する。つまり震災後に主体が拡散した上で、いかに全体主義的な雰囲気に飲まれず僕たちは生きていけばいいのか、ということをこの小説から読み取ることができるのである。

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