見出し画像

【告知】連載評論「擬人化する人間」第9回(小説トリッパー)

久々の更新で告知になります。

連載評論「擬人化する人間—―脱人間主義的文学プログラム」第9回を寄稿ました。今回は芸能人小説論になります。又吉直樹、加藤シゲアキを論じました。

又吉直樹、加藤シゲアキは二〇一〇年代に小説家デビューした二人ですが、共通した「芸能」という枠組みから出てきた作家になっています。

それを「芸能」というくくりから外さずに、あえて作家論として論じたものになっています。

文芸批評の世界では、テクスト論といって、基本的に作家と作品を切り離して論じるという態度があるのですが、それをあえて行わずに論じています。

僕自身、この文芸理論に関してはあまり説明しなくてもいいかな、と思いつつ、専門の人からのツッコミがあったり(なんで作家論を今更やるのかみたいな感じ)、編集の方からも「あえて作家論を行う理由」を述べた方がいいと言われたので、その部分も丁寧に述べていきました。

ここらへんの話をすると、文芸批評の理論的世界はかなりややこしいので、すっとばしたかったという経緯があります。ただやはり文芸評論となると、その部分もきちんと踏まえたうえで行わないと、あえて作家論を行うことが時代錯誤な評論、またぺーぺーが書いた何も考えてない評論になってしまうというのも事実だったので、多少は詳しく書きました。

ここらへん書けなかったことを膨らますと、批評理論はポスト構造主義以降特に目立った変化もなく、現在は文芸業界はその延長にあるフェミニズム批評やジェンダー批評、またそこから派生している「ケアの論理」が隆盛している状況があると僕の目からは見えています。(90年代から00年代はカルチュアルスタディーズの方が強いイメージはありますが。)

これらは非常に重要な言論だと思います。作品をもう一度別の視点に展開させるという文芸批評の方法論が実社会へ影響力を持っていること。ジェンダー・フェミニズム批評はそんな役割があると考えられるからです。

ただあまりにもそれ以外の読みが消えてしまっている印象も少なからず僕は受けていて、それ以外の多様な読みも必要なのではないかと。

それこそ、テクスト論という考え方は自由な読み方をするための道具だったはずですが、そのために作品を語る言説がどこか軸のないものになってしまっていて、言葉の敗北とも言える事態になっていると僕は考えています。もう少し踏み込むならば、Twitterなどのネットで起きている論争(とも言えないヘイト発言の可視化と前景化など)はテクスト論のような作者という特権性を無化するようなものにも見えます。

そんな中、そもそも「芸能」という構造的に嘘をまとわなくてはいけない存在が小説を書くとはいったいどういうことなのか。そこには単純に物語を書くこと以上の意味合いがあるのではないか、と考え彼らの作品を読解した次第です。理論的な話なので分かりにくいかもしれませんが。

ひとまず、もう少しで連載が一旦完結すると思います。よろしければご覧いただけると幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?