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あまりに人間的なウルトラマンーー『シン・ウルトラマン』感想


※ネタバレ注意

 空想特撮映画として『シン・ウルトラマン』が公開された。監督は樋口真嗣、また企画・編集は庵野秀明と『シン・ゴジラ』のコンビによる作品だ。公開直後の興行収入も良く、順調に客足を伸ばしており、昨年公開された庵野秀明監督『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』も相まって、話題性も高い。


 内容自体は初代である『ウルトラマン』のオマージュとなっている部分がほとんどで、ザラブ星人やメフィラス星人などの当時から存在した異星体(=外星人)が登場する。舞台は現代日本だが、「禍威獣」と呼ばれる謎の巨大生命体が頻繁に現れる世界だ。そんな禍威獣を人類側は何とか食い止めるも、次々と現れるそれに対して、国は防災庁また禍威獣災害対策復興本部を同時に設立する。そしてその防衛庁内に禍威獣特設対策室、通称「禍特対」と呼ばれる総勢五名の専門家チームを設置、禍威獣対策を行っていく。プロローグではこの説明が字幕とともになされていく。


 本編の物語は七体目の禍威獣「ネロンガ」が出現するところから始まる。禍特対はネロンガの駆除対策をしていくも街が次々と破壊され住民たちもパニックに陥っていく。そんな中、突如空から銀色の巨人が現れ退治をする。そんな巨人は禍特対から「巨大人型生物ウルトラマン(仮称)調査報告書」が出され、ウルトラマンと呼称されるようになるのだ。


 「ウルトラマン」は批評的な文脈で読み取られることも多い。それは映画評論家の清水節が『シン・ウルトラマン』のパンフレット内で指摘するように「勇気・希望・思いやり」といった普遍的なテーマがありながら、多角的な視点を提供したことももちろん、テレビの全盛、また製作された60年代の安保闘争や高度経済成長期などといった時代背景も絡んでいるからであろう。そのようなことを踏まえたうえで、本作の主題は一体何かと考えた時に、様々な考察が可能だが、その一つに「現代にとって「人間」とは何か」という問いかけにあると思われる。


 ここからネタバレになるが、ネロンガ駆除対策の際に禍特対の作戦立案担当官である神永新二がその現場にいた子どもを、巨人(=ウルトラマン)が出現した際に起きた土砂や瓦礫の飛散から助けるために命を落としてしまう。その後、ウルトラマンは精神を一体化させ、神永新二として人間社会に溶け込むことになる。彼は神永という人間の精神性を持ちながら、外星人の精神性を持った者として存在することになる。つまり作中で彼は神永新二という人間的存在であり、ウルトラマンという存在でもあるのだ。


 そんな神永=ウルトラマンが作中で本を読むシーンがあるが、そこで焦点化されていたのがクロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』だ。『野生の思考』は人類学書の古典として今もなお参照されている。レヴィ=ストロースはフェルディナン・ド・ソシュールが言語学で行ったような構造主義的な思考のもと、フィールドワークを通して未開民族の文化的特殊性を論じ、西洋中心主義的なものを批判した。近代社会では、西洋の思想を優れたもの、それ以外を劣った野蛮なものとして捉えるのが一般的だ。しかしレヴィ=ストロースはそのような未開社会にも独自の秩序や構造があると論じ、その絶対主義に一石を投じることになる。


 ウルトラマンをはじめとした外星人は人間を超越した存在だ。本作中のメフィラスとのやり取りを見ても、その存在は知性の面でも力の面でも人間をはるかに凌駕していることがわかる。メフィラスは地球に存在する10億以上もの人間を「有効資源」として考えている。そして圧倒的な力と知性という「絶望」のもとで管理しようとする。「暴力が嫌い」と述べ表面的には友好的に人間たちと交渉をするメフィラスだが、その思想は人間を自分たちの下位存在として見なしている節がある。いうなれば外星人中心主義と言ってもよい。


 ウルトラマン=神永はメフィラスから共闘の誘いを受けるが拒否をする。それは人間の本来の力を封じ込めるものだからだ。『シン・ウルトラマン』のウルトラマンは一貫して「人間」を信じるものとして存在している。しかしもちろん、そこに苦悩はある。ウルトラマンは人間(=神永)と外星人の間に存在している。神永の中に入り、精神性としてはウルトラマンが存在しているが、神永の意志も残っているという状態であるため、本来的には人間に肩入れする必要がない。しかしそれでも人間の仲間を思う気持ちや、知性、行動力に期待し、それを否定するような外星人たちと対峙していく。


 そもそも初代ウルトラマンも科学特捜隊のハヤタ・シンの命をウルトラマンが奪う形で一心同体になる。しかし、ウルトラマンが力を貸すのはある種の罪滅ぼしのためだ。それに対し、企画・編集である庵野秀明も述べるように、『シン・ウルトラマン』でウルトラマンが地球に残る理由は人間を理解したいという気持ちによるもので星にとどまる設定になっている。ウルトラマンは物語上で一貫して「人間とは一体何者なのか」ということを考えていく。そしてそのことによって、人間を信じる心が芽生えていく。外星人達と比べたら「劣等種」とも言え、愚かしくも見える人間。それを神永=ウルトラマンは人間と外星人の間で思考をしていく。


 ともすれば、『シン・ウルトラマン』のウルトラマンは人間よりも「人間らしい存在」と考えられる。いや、もしかしたら事態は逆で、人間自身が人間であることを放棄してしまっている時代が現代であるのかもしれない。科学技術の発達は人間の知性を逆説的に抑圧し、長い間の経済的停滞は未来に希望を持てなくなっている。そのように人間自身が消極的なニヒリズムに陥る傾向のある昨今、人間たちは自分たちの意志が消滅していくことを実感することは多い。禍特対の非粒子物理学者である滝明久が外星人たちのテクノロジーに絶望し「全部ウルトラマンが何とかしてくれる」といった態度をとることが描かれるのは象徴的なシーンであろう。そんな中で、神永=ウルトラマンは人間に対して希望を持つことを諦めない。「光の星」から来た同族であるゾーフィに対して人間を信じる自身の気持ちを語っていく。それはあまりに人間的で、あまりに普遍的なことに捉えられるかもしれない。だがこの現代社会から本作が照射された時、さらに光輝くものとして、観た者に映るに違いない。


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