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宇野重規『<私>時代のデモクラシー』ーー連載批評「擬人化する人間」の参考文献紹介①

ちょっと自分の整理のためにも、現在連載している「擬人化する人間――脱人間主義的文学プログラム」の参考文献で役に立ったものをnoteに書いておこうかと思う。

……といっても、あまりに量が多すぎるので(というか、小説に関してはその作家の本ほぼすべてになってしまうので……)本文中に触れている・触れていないともかく、批評的な観点で参照した本をここに書いて少し紹介していく。興味が紹介した本をぜひ読んでほしい。(どのぐらい取り上げるかは不明だが、ひとまず不定期に上げていこうと思う。)

まず一冊目は宇野重規『<私>時代のデモクラシー』だ。

僕が現在、連載をしている「擬人化する人間」は、近代以降起きた「個人主義」の問題と、その後のポストモダン化で進んでいった近代の崩壊による「私」の在り方を文芸評論という少し古めかしい方法論を利用して考察している。その現状にテクノロジーが加わった自己の変遷を辿る論文だ。自分としてはさして難しいことを書いているつもりはないのだけれど、やはり「現代社会」の前身である「近代社会」が一体どのようなものなのか、ということが理解されていないとよくわからない議論なのかもしれない。

近代社会は「個人主義」の時代だ。階級や出生などから解放され、一人一人が自由に自分自身の人生を進むことができる。物の購入も、職業の選択も自分のために行ってよい。誰かに何かを決められて進むより、それはよっぽど良いものだと思う人も多いだろう。

しかし、そこから起きてくる問題もある。その一つに本書が取り上げてる平等の問題がある。それぞれ個人が等しく自由になった結果、周囲との差を人々が気にしていく。そこから生まれる不平等感が前景化してきているのだ。全員が同じステージに立った時、起きるのは際限のない他者との差異とその意識であり、自分とは何者なのかという問いかけが目の前に現れてくる。言ってしまえば全員が「主人公」になる中で、人々が「平等」を求めていく。

本書のはじめはそんな不平等感の時間的幅が非常に短くなっていると書かれている。もう少し長いスパンで見られるべき「平等・不平等」という尺度も、日本では現在様々な「システム」の制度崩壊によって短くなってしまっているという考察だ。例えば、「家族」というシステムは親と子どもをそれぞれ本人と準本人とし、親の不平等を子どもでどうにか清算をするという形をとっていたが、現在はそれが通用しなくなっているという。また「会社」に関しても、年功序列が通用しなくなっている現在は将来の見通しが立てられず、そのようなレールには乗らなくなる。宇野はかつてのこれらのシステムが生み出した「宗教」によって不平等性は軽く感じさせることができていたが、その神話が崩壊した今、「いま・この瞬間」の不平等に視点が移るようになったと述べるのだ。

そしてこれらは社会的なものが「個人」化しているのではないか、という論に展開していく。社会的な問題が個人の問題として顕現してくる。人間たちは個性という差異を志向するようになってくるというのだ。そもそも近代社会の「個人主義」は「かくあるべし」という規範があった。ある種の普遍主義としての個人主義だったのだ。要するに「自由な個人」といっても「理想的な個人像」のようなモデルがあったのである。しかし、現代の「第二の個人主義」は「普遍主義」としての中央集権的なものを崩壊させ、その方向性を自己実現としての個人主義を志向していく。つまり、理想的な個人を目指すのではなく、自分にとって気持ちの良いものを目指す個人主義になっているということなのだ。そのため、僕ら現代人は絶え間ざる自己確認を行わなくてはいけない。自己啓発本が多く読まれ、またセラピーという個人の内面のケアが必要になってくるのは、このような状況に起因する。

近年の政治の砂状化、基盤の喪失はそこにつながってくる。二〇〇〇年代の日本の現在の政治状況である「政治の貧困」の問題は<私>の問題と<公>の問題が離れてしまったことにあり、その回路をつなぐ必要性があると筆者は分析するのだ。そして結論として答えのない中でそれを模索しながら行う必要があるという至極真っ当な民主主義の提案として締め括られる。

ここからは感想だが、新自由主義的な風潮のツケが回り始めているのか、ここ最近、自由と平等、国家と市場の議論を今一度見つめ直そうとしている言説がよく見られる気がする。コミュニティの重要性や自己責任を問い直すものが多い。その根本は本書で書かれているような「私」を希求する意識が強くなっているため、他者性の回路を作る試みだろう。

また似ているなと感じたのは、丸山眞男の『日本の思想』だ。『日本の思想』は日本近代の姿を、有名な「タコツボ」「ササラ」などといった比喩的な分類を用い、明晰に分析したものになっている。そこでは日本に起きている近代の「宿痾」とも呼ぶべき混乱が描かれているが、『<私>時代のデモクラシー』はさらになお「政治」的な意味でその問題が大きくなっていることが見て取れる。

二〇一〇年に出された本書は二〇二二年の現在でも続く問題だ。そしてさらにはテクノロジーという無視できないツールが加わり、ますます「私」の問題は複雑化している。

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