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Excel的な実存について――年森瑛『N/A』書評

 数の計算が必要となる仕事をしていると大抵Excelが必要になってくる。時には単純な足し算だけでなく、平均値の算出や数値の置き換えをしなくてはいけないことがある。その時に関数を使っていくのだが、式が合わない時がある。#REF!や#NAME?が出るときもあれば、該当なし=#N/Aと記述されることもある。
 
 自分が(・・・)何かを誤ってしまっている。だから作り上げている式をもう一度見て何がおかしいかを考える。Excelというソフト自体がおかしいとは考えない。それは計算を行うシステムなのだから。

 自分がおかしい。どうすればいいのか。そこに合うように自分を組み替え続ける。
 そんな思考を仕事や実生活において、僕たちは――少なくとも僕自身は――意識的にも無意識的にもしてしまっている。

 年森瑛『N/A』の主人公、松井まどかは女子高に通う高校生だ。彼女は自分の「性」に対して違和感を持っている。中学生のころから月経を止めるために低体重を維持していく。背が高く細身のまどかは周囲から「松井様」と呼ばれ、いうなれば女子高の中で女の子にモテる「王子様」的ポジションにいる。また松井まどかは、教育実習に来た女子大生である「うみちゃん」と付き合っている。うみちゃんはまどかへの恋心が見受けられるが、まどかは恋人関係には特に興味がなく、「かけがえのない他人」が欲しいと願っている。

 安易にLGBTQ小説だと規定すると本作はそれこそ本質を掴み損ねる。そのような規定に当てはまらない=該当なし=N/Aとなるのが本作である。うみちゃんは自分とまどかとの日々をネットのSNSで投稿をしていき、社会的マイノリティの権利を訴えていることが判明する。うみちゃんはその投稿によって周囲から多くの賛同を得ていた。それに対して、まどかはショックを受ける。自分の知らないところで自分が作られていく。LGBTQもその一つだろう。そのような外部からの枠に閉じ込められてしまう。単純な性自認や性的指向、性表現の問題ではない。

 似たような自分自身の「性」を模索していく作品に村田沙耶香『ハコブネ』、また多様性への嫌疑を描くものとして朝井リョウ『正欲』があるが、『N/A』自体このような指摘を許さないような内容でもある。しかし、あえて類似性を指摘しつつ、差異を挙げるのであれば、本作はこの「性」の問題がネット的感性と混じった実存としてあることだ。

 彼女や友人たちは検索をして言葉を探す。しかしその言葉はどこかしっくりとこない。僕たちは以前より簡単に言葉を探し出すことができるはずだ。にもかかわらず、それが自分の言葉にならない感覚がある。これは単純な「性」の問題に還元されるわけではない。人間全体の「実存」の問題である。

 現在は多くの言葉がグリッド上に用意されており、簡単に紐づかせることができる。それこそ当てはまらないものがないぐらいに。だから当てはまらなかった場合考えるのは、「私」がおかしいということだ。頑張って間違いを修正し、自分自身をプログラミングし直していく。こうして「私」はまた「私」を失っていく。

追記

 ……上記は筆者自身の問題として書いたものだが、そもそもこの作品の凄味は表現力だ。細かいところに描かれる世界の捉え方が軽妙なのだ。

 例えば母と叔母が手を降るシーン。そこでは「ぐりとぐらみたいに踊っていた」と書かれ、またその後母はまどかが近づいてきたのに気づくと「母はいつもの母に戻」る。(p44)

 これらも「母親」としての振る舞いをまどかの母自身が身にまとってしまっていることを示唆しているものだ。他にも食べ物=生々しいものと自己を上手く重ね合わせ、それに対する嫌悪を描写している。スプーンに載せたホットケーキを「向けられたスプーンの先に糖質のかたまりが載っている。」(p31)と描写し、コメダ珈琲のサンドイッチを食べるシーンでは、「まどかはサンドイッチの類が好きではなかった。生の野菜も、どろどろした卵も、なまっちろいパンも、全て苦手だった。」(p62)と書かれている。もちろんそれは彼女自身が体重管理をしていることもそうだが、生々しい「人間」という存在自体への嫌悪を上手く表現している。

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