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【再掲記事】「客観」がない現実?――神林長平『ぼくらは都市を愛していた』書評

現在、神林長平『オーバーロードの街』を読んでいるのだが、こちらが非常に面白い。現代社会論にもなっていながら、エンタメ作品にもなっている非常に読み応えのある作品だ。僕は『言壺』に衝撃を受けた人間で、また読み終わったら『オーバーロードの街』についても感想を書こうかと思っている。

さて、そんな神林長平作品である『ぼくらは都市を愛していた』について書評サイト「シミルボン」での記事を再掲する。やはり本作も『オーバーロードの街』同様に現代社会について考えさせられる作品なのだ。

この作品を読むと奇妙な感覚を受ける。確かにこの作品はSFであるから現実離れをしているがゆえに、現実感がなく奇妙なものではあるだろうが、それだけではない。眩暈のような感覚を覚えるのである。

本書は二つの物語が交錯して紡がれる。一つは綾田カイムという男の視点、そしてもう一つは綾田ミウという彼の姉の視点から描かれている。ミウの記述は彼女が書いた日記の体裁をとっており、章立てされている本編はカイムの視点となっている。


本編の方では、公安警察庁で働いている綾田カイムが「体間通信」というものを身体に埋め込まれ、相手の思っていることを傍受することができるようになるのである。

そこでわたしはいきなり気づいた。わたしの感じている雑念というのはどうやら他人のものらしい、ということが。

(神林長平『ぼくらは都市を愛していた』)

この体間通信は確かに相手の意識を読み取ることができるが、いいことばかりではない。強制的に共振をさせられて、意識がごちゃごちゃになり、それが自分が思っているのか、相手が思っているのかがわからなくなる。だからこそ、「客観」とは一体なんなのかがわからなくなるのだ。

それにしても、自分の妄想と他人の意識との区別をおうつければいいのか。テレパシーなどというのはすべて自分自身の意識上に浮かんできた妄想かもしれないのだし、体間通信による偽テレパシーにしても同様だ。自分の妄想を書き連ねた文書は、普通、調査報告書とは言わない。

(道場)

そして、カイムはある場所で起きた殺人事件を追うことになる。しかし、現場に行った時に感じてしまったのは、その被害者の女性は「自分が殺した」ということだった。それは果たして自分が本当に行ったのか、それとも体感通信で汲み取ってしまった誰かの意識なのか。本作はそのようなミステリ的な展開で進んでいく。このように、どこまでが自分の考えで、どこまでが他人の考えなのかわからないような奇妙な感覚=眩暈を本書を読むと感じるのである。

『ぼくらは都市を愛していた』は震災後に出版された作品だ。またところどころで震災を彷彿とさせる表現がちりばめられている。しかし、この眩暈を感じるような感覚は今でこそよく見受けられるのではないか。それこそ加藤典洋の言う「感動」社会や、現在言われている「共感」や「忖度」などといった出来事を予兆していたかのような作品である。

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