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ディストピアを書き変えろ!(映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』前章)

浅野いにお『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(以下『デデデデ』)は1巻が発売当初からずっと買い続けてい追い続けた作品だったが、この度映画化をするということで見にいった。

本作の1巻が発売されたのは二〇一四年。
この時期はまだ、東日本大震災の影響が色濃く残っているときだった。もはや歴史的な出来事であるだろうが、放射能の問題や復興の問題、様々なものがどうしようもなくなっていた。

しかし、そんな危機的状況だったが僕たちの日常は淡々と進んでいったのだ。ディストピアの中にいるが、僕たちの日常はそれを危機と思えないように進んでいく。本作を見たり読んだりした人間ならこれがまさに『デデデデ』で描かれている状況と同じような世界観だということがわかるだろう。

『デデデデ』はヒロインの二人「小山門出」と「中川凰蘭」(=おんたん)を中心に進む話であるが、同時に上記に挙げた機運を巧妙に描き切った作品になっている。

本作がそのような作品であることの例をいくつか挙げよう。

例えば本作の一番最初と最後には必ず『イソべやん』というマンガが挿入されている。『イソべやん』は『デデデデ』の中で実際に出てくるマンガだが明らかに『ドラえもん』のパロディだ。(ちなみに漫画の最終話でも明かされるようにヒロインの名前の「門出=デーモン(=DEMON)」と「おうらん(=ORAN)」は足すと「ドラえもん」のアナグラムになっている。)

未来の科学の力を使って猫型ロボットの「ドラえもん」が「のび太」の様々な問題を解決していく。『イソべやん』は「イソベやん」が「でべ子」という女の子に未来の超文明の道具で手助けをする構造は同じだ。また、結局そのような道具を使用してもでべ子は失敗が続いてしまう。

文明の力を使うことの失敗。いうまでもなく、震災であれば原発事故が思いつく事案である。侵略者がやってきた「8.31」も「3.11」からとってきており、やはり震災を色濃く反映させている。

他にも侵略者によってまき散らされている「A線」という存在も放射能のアナロジーであり、各所にはナショナリズムの機運を戯画的に書いたりする場所もある。キャラクターたちも陰謀論などに傾倒する場面も見受けられる。

このような精緻な生々しいリアリズムがある一方で自身上記のインタビューでも書いているように本作は『けいおん!』のような日常系を目指していたのだという。つまりそれぞれの少女たちの「日常」を楽しむ作品ということだ。

今回の主題歌を見ても、アーティストであり、今回の主演声優である、あの(ano)と幾田りら、それぞれがfeaturingした『絶絶絶絶対聖域』と『青春謳歌』の歌詞でも、二人の関係性の「絶対」性を強調するようなものになっている。


ただここには浅野いにおの露悪的な側面があり、『けいおん!』=「日常系」と言いながらも、現実世界という外部の生々しさを描いている。地球の危機=「やばさ」と日常の変わらなさ=「絶対性」。そのコントラストが本作では非常にリアルだったのを発売当時に読んだ時に感じた。3.11の当時でも震災という大災害を前に、悲劇的な側面が日本で起きている一方で、変わらない日常が地続きになっており、複雑な心境になっていたのを記憶している。

『デデデデ』は全12巻であるが劇場版では大きく構成を変更して書かれている部分がある。例えば「おんたん」の過去の回想の話がマンガよりも早く挟まれる。もちろん、前章と後章という二つの章しかないという時間的制約もあるだろうが、本作のメインが門出とおんたん二人を中心軸とした日常の物語なら納得できる構成である。

しかしやはり「アニメ映画」という表現媒体であることもあり、漫画版に比べてかなり現実の匂いが脱臭されてマイルドに描かれている部分も多かった。意外なことに、浅野いにお作品はこれが初アニメ化ということなのだが、言われてみれば『ソラニン』は実写映画であった。震災後の日本の描き方といい、アニメよりも実写的な「生々しさ」をもともと得意としている作家なのだともいえるだろう。

ただ今回の『デデデデ』はよりポップでマンガ的な記号化されたキャラや要素をふんだんに使った作品になっている。だからこそ実写よりもアニメに向いているのは頷ける。

しかしよくよく考えてみると、この生々しい現実とポップな日常の対極的な二つが同じ空間として描かれていることこそが、現在の「リアル」であり、ある意味で実写にしないことにある種の現実味が出るという倒錯が起きているのだ。テクノロジーが入り込みバーチャルな感性が当たり前のようにあふれている昨今。僕たち世界もそんな二つの状況が入り混じった奇妙な空間になりつつあるのではないだろうか。

さて、そんな「リアル」を描いた『デデデデ』なわけだが、そこでは僕たちの社会よろしく様々な問題が山積している。そこで中心的に描かれるのは「正義」の在処である。

社会を生きていると様々なことに対して怒りを覚えることもある。都度入ってくる多くの情報が僕たちに混乱を来す。これもネットが一般化されていった震災以後の特徴でもあるだろう。

僕達は社会的な問題を考える必要はある。しかし、それを机上のものとして日常に根差さずに考えてしまえば理想論となってしまう。『デデデデ』でも過度に正義に傾倒しすぎた者たち(=小比類巻や別世界の門出などがそうである)が出てくるが彼らもその自己本位の正義が暴走してしまった存在である。

だからこそ、本作が訴えるのは、日常を疎かにした中で「正義」はあるのだろうか、ということだ。小比類巻も別世界の門出も自分たちの目の前の日常や人間たちを疎かにして「正義」に傾倒してしまう。その結果、惨憺たる結果になってしまうのは映画や漫画を見ても分かるだろう。

本作は「日常系」という「平和な空間」をまとった作品だ。執拗に門出とおんたんたちの友情にフィーチャーされ、彼女たちの存在がある種の「平和ボケ」に見えてしまう部分もある。ただ本作はその状況を「平和ボケ」と考えてしまう感性の危険性を示唆しているのだ。

ディストピアの中で絶望するのではなく、また社会に対する極端な正義に陥ることもなく、日常を地盤として僕たちの世界を考え、そして変えていく。

『デデデデ』は単純な漫画・アニメ映画ではなく、その表面の内側にうごめく「現実」が内包された作品になっている。

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