見出し画像

虚構の中で、どう虚構を生み出すか――町屋良平『ほんのこども』試論

『ほんのこども』への正直な感想は、非常に「わかりにくい」というものだ。もう少し言葉を選ぶなら技巧的な小説である。

小説家の保坂和志が本書の野間文芸新人賞の選評に次のように書いている。「『ほんのこども』だけは、問題が何なのか、小説に先んじてあるわけではなく、問題はとても錯綜していて私は説明できないが、とにかく、小説で考え、小説が考える。」「他の委員は、作品の理解に手を焼いたみたい」。ここからも、やはり解釈に苦戦を強いられていることがわかる。ちなみに言葉遣いのわかりにくさがあるわけではない。どちらかというと非常に平易な文章で書かれており、それぞれの言葉の意味合いも取ることができる。しかし、物語の構造、また一文一文のつながりによる意味の飛躍により、解釈を困難にしているのだ。

しかし、この小説をもう少し細かく読解して考えてみると、非常に巧妙な出来に気づく。そしてこの形でしか表現ができなかったという事実がある。

本書は「私」を主人公とした私小説的なものとして物語が進んでいく。主人公は小説家であり、ボクシングと青春群像劇をモチーフにした小説で文芸賞を2回受賞している。これらの情報は町屋良平という作家を知るものならばすぐに芥川賞を受賞した『1R1分34秒』と文藝賞を受賞した「青が破れる」ということに気づくだろう。その他にも、「町屋良平」と一致するような情報がいくつか提示される。

「私」は現在の自分の状態を綴っていく。「私」は現在、物語が書けないという状況に悩んでいる。そうした中で、物語性など関係ない私小説をいったん書いてみようと試みるのである。そして構造としては本書がそのようにして書かれたものであるかのように見えるものとなっている。つまりメタフィクショナルな構造を持っている小説なのだ。

本小説内で「私」は自分の過去の話を「かれ」として客観的に書いていく。ただその中で時折「私」の自意識の吐露がある。示唆されるのは「私」と「かれ」が完全に同一化できていない状況だろう。つまり「書くもの」と「書かれたもの」の不一致になる。私小説として「書かれた」「かれ」=「私」は完全な「私」ではない。当たり前の話かもしれないが、僕たちは登場人物と作者を同一視して見てしまうきらいがある。例えば町屋良平という作者自身もボクシング経験をしているため『1R1分34秒』も「町屋良平」という作者自身の投影として読んでしまうことは何ら不思議ではない。しかし、よく考えてみれば、小説はフィクションなのであるから、それが必ずしも「私」=作者、となることはあり得ない。それは本を読み慣れた読者ならすぐにわかることであり、いわゆる文芸批評的に考えるのであればテクスト論と呼ばれる考え方にあたる。

そんな「かれ」は「あべくん」と呼ばれる男の子と出会う。そしてそのことで「私」が小説を書くきっかけとなったことが、その「あべくん」に原因があるということを思い出すのである。「私」は「あべくん」からもらった三十三の散文から小説を書くことになったのだ。

「私」はそんな「あべくん」のことを「かれ」と交ぜ合わせながら記述していく。「あべくん」は母親が父親に殺された男の子である。本作は6つの章で別れているが、1の章段では、「あべくん」に関するおおまかな情報が描かれる。そこでは「あべくん」は二十二歳の時に恋人を殺し、そして死んでしまうことが書かれている。「私」は「私」=「かれ」を小説で描くと同時に、その「あべくん」も描いていく。

「あべくん」と十九歳の時に再会を果たした「かれ」は「あべくん」に小説を書いていることを告げる。そして「あべくん」に対しても小説を書くように促した後に「あべくん」からもらったのが、三十三の散文だったのだ。そしてこの文章を元にして「私」は小説を書いたため、「私」の小説は「あべくん」の文章と似ていたのである。そして長編小説が書けないスランプに陥っている「私」は「あべくん」からもらったテキストを元に小説を構築しようと考えるのだ。

そして本作に現れる主体として「小説」が登場してくる。「小説はあべくんを笑った」「小説はあべくんとハグした」など。擬人的に小説を扱っている。つまりこのような部分を見ても本小説はフィクションであることがわかるし、フィクション自体を扱うメタ的なものであるということが戯画的に認識できるのである。細かい登場人物は他にも出てくるが、大まかな構図としてはこのようなものになっている。

つまり、本作はメタフィクションであり、端的に述べるのであれば「創造するとはどういうことか」ということを小説自体を使って表現している。小説を書くことにスランプに陥ってる「私」は創作の原点である「あべくん」の小説によってもう一度私小説という形式で小説を書く。そのことによって

もちろんそれだけではない。

本作は「あべくん」の散文を手直しすることで新たな小説を作るとともに死んでしまっている「あべくん」を想像=創造しなおしている。「あべくん」は実在するか分からないが、書かれることによって「あべくん」の輪郭がはっきりしていく。死んでしまっている「あべくん」をもう一度小説として書くことによって確かな輪郭をつけていっているのである。

他にも作中では「あべくん」の散文を手直しすることで新たな小説を作るとともに死んでしまっている「あべくん」を想像=創造しなおす。「私」は「あべくん」のことを深く知っているわけではない。それどころか、存在しているかも怪しい。しかし「あべくん」を小説として書くことによって確かな輪郭が与えられていく。フィクションを通して存在しない「あべくん」を作り出していっているのだ。

現代は「演じること」=虚構として振る舞うことが常態化している。「私」をいかに演じるか、というかつての近代作家が行なっていたような戦略を一般の人たちが行なっている状況だ。写真アプリから始まり、SNSでの投稿、また文字情報を踏まえて周囲の状況を踏まえて自分自身を変化させていく。つまり意識的に虚構を纏うことが当たり前になっている。キャラ論を取り出すまでもなく、僕たちは日常の感覚として理解できるだろう。また加えるならば、文章も含め、さまざまなものを自動生成できるテクノロジーが現れていることは、虚構を簡単に生み出してしまう状況でもある。加えてきな臭い話だと陰謀論や歴史修正主義など、現在は今一度「虚構」なるものを根本的に考えないといけない現状になっている。

このことを踏まえるならば、フィクションが考えなければいけないことは、「フィクションが常態化した中でフィクションはどうあるべきか」という問いである。『ほんのこども』で描かれるのは、そのような状況に問いに対してのものだと考えられる。だからこそ、本作は単純なメタフィクションの小説などではなく、非常に批評的な作品であると考えられるのだ。

またこのような自己言及的なものではなく、そのようなフィクションの常態化中のフィクションを描いた作品が雑誌「文藝」に一挙掲載され、3月14日に発売される『生きる演技』になる。こちらの作品は『ほんのこども』のような技巧で絵かれているわけではなく、ストーリーの中でのこの状況を描いている。『ほんのこども』の問題意識とともに読めば、なお一層楽しめる作品だ。


※本文は1月の文学フリマ京都で出したフリーペーパーの再掲になります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?