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【脱主人公化】の時代~ラノベは社会の写し鏡~

最近のライトノベルを読んでいて思ったことを書いています。
ズバリ言うと、最近は変革しない主人公が増えている気がしますね。
ただ、本当に変わったのは主人公だけでしょうか?

1 昨今のライトノベル

先日、一昔前のライトノベルを読んでいたのですが、やはり時代の変化を感じますね。一昔といっても、ここ5~10年程度の話ですが。もちろん、絵柄も変わったし、好まれるプロットも変わりました。でも、一番変わったのは、主人公の在り方なんじゃないかな、と最近思うようになりました。
一言で言えば、

主人公が主人公らしくなくなった

ということです。

今までサブプロットとして描かれてきたようなプロットがメインプロットとして現れたと言うべきか、あるいは、外伝が本編になったような。
サブプロットや外伝は、主人公の物語から外れて、今までフォーカスされていなかった人物や出来事を描いてきました。そこに新鮮さがあったり、思わぬ伏線が隠れていたりしたわけで、または主人公が見ていない世界を見ている特権に興奮を覚えていました。

かつての主人公は、「何かを変える力」を持っていた。
世界を変革する力をもって、その力を誰かのために発揮する主人公。

しかし、現在の主人公はどうでしょうか。
現状肯定に固執する主人公。小さなことにしがみつく主人公。誰かのためではなくて、自分のため。「ありのまま」を受け容れてくれるヒロイン。
〈変化を否定することを否定する〉価値観を正当化する物語。

よくあるのは、だめな社会人がいて、心に劣等感を抱えていたりする。そこまでいかなくても、「今のままでいい」と思っている向上心のない無気力主人公。ひょんなことから、会社の美人の同僚や女子高生、といった若い女性に "for no reason" で好かれる。彼女らは「ありのまま」の主人公を受け入れる。
たいてい、そういう作品のテーマは、
「社会は無気力だったり向上心のない人間に冷たい目を向けるが、それは間違っていて、ダメなままでいいんだ、自分を肯定することが大事なんだ」

そして、こういった作品の特徴は、むしろ成長するのは周囲の人々なんですよね。自分が変わるのでは無く、相手が変わる。ポイントは、主人公が相手を〈変える〉のではなく、相手がひとりでに〈変わる〉ということ。

私が冒頭で言った、
「外伝が本編になるような、サブプロットがメインプロットになるような感覚」とはそういうことです。
主人公が変わるのではなくて、ヒロインや周りの人が気づき、障害を乗り越え、成長し、変わっていく。そしてそこにフォーカスが当てられて話が進んでいく。主人公は積極的に物語に関与せず、見守る保護者のような視点。最近は、教師的な立場の主人公が増えている気がしますが、それもこの流れの一つかもしれません。

なんだか、主人公の目を通して世界を傍観している感覚。
主人公の存在が、我々が物語を視るために必要な、一種の望遠鏡のような舞台装置になっている感覚。
もちろん、かつてのライトノベルの主人公も、我々読者の目として機能していましたが、同時に行動する役者でありました。しかし、最近の主人公には、映画のプロジェクターのような装置として登場している気がします。

もちろん、主人公に全く変化がないとは思いません。
周囲の人々やヒロインの成長に触発されて、再帰的に自分の成長に還元させていく。でも、そこには「世界を救う」ような主人公はいません。
あくまで、変わるのは主人公の内面であって、世界ではない。
もはや、主人公に変革の力は存在しないのでしょうか。

2 児童文学の歴史

話はすこし変わりますが、『西の魔女が死んだ』を読んだことはありますか。梨木香歩さんの作品です。当時私は、『魔女の宅急便』みたいなのを想定して読んでいたので、拍子抜けしましたね(笑)。

『西の魔女が死んだ』梨木香歩 新潮社

この作品の内容には今回は深く触れませんが、非常に感動しました。身勝手な話ですけど、自分の心残りの贖罪を果たしてくれたような、救いを差し伸べてくれたような結末に、感涙でした。「後悔先に立たず」と言いますが、後に立たれたからといって過去はどうすることもできないです。だからいつも後悔は足し算。減ることはない。でも、この作品を読み終えた時に、何か許しを与えてくれたような、許されたような幸せな気分を私たちに残してくれます。だからこそ、大人に愛されるロングセラーなのでしょう。

さて、私自身にも、そして多くの人にも愛されてきた作品ですが、批評の矢に当てられることもあるんですよ。

文学がこんなに健やか志向でいいのかしら。これが、児童文学の世界でのことであっても、とまどわずにはいられない。

西山利佳『〈共感〉の現場検証——児童文学の読みを読む——』くろしお出版 2011年 p32-51

彼女が言うには、
『西の魔女が死んだ』は、健康的すぎる。かえって不健康に思われる。
なぜなら、60年代の児童文学にあった「変革の論理」が存在しないから。変革の論理とは、「主人公達をとりまく状況が変えるべきもの、変えられるものとして描かれていた。人間をとりまく状況に対して、自ら変更可能なものとして対峙していく」(西山利佳)こと。
90年代に発表された『西の魔女が死んだ』には「変革の論理」がない、というのが彼女の主張です。

3 ラノベ主人公に「変革」はあるか

彼女の批評を読んだ時、なんか既視感がありませんでしたか。
そうです、近年のライトノベル主人公が世界を変えなくなった、という私の所感と似ているんです。

これはどういうことかを、私なりに説明すると、
かつて児童文学史上で起こった変化が、現在のライトノベルにおいて繰り返されているのではないかということです。

『西の魔女が死んだ』に話を戻しましょう。
変革の論理が失われてしまった以上、90年代児童文学にどのような意味があるのか、もはや児童文学としての意義がなくなってしまったのか。
そういうわけではありません。

「六〇年代的児童文学」と現在の児童文学には、全く別種の「自己物語」の変容パターンがあると考える。その上で、前者を「自己や自己を取りまく状況の〈書きかえ〉を軸とする〈書きかえの物語〉」、後者を「自己や自己を取りまく状況の〈読みかえ〉を軸とする〈読みかえの物語〉」と捉える。

沢崎友美、『白百合女子大学児童文化研究センター研究論文集』第12巻、2009年3月

沢崎氏が言うには、
90年代以降の児童文学では、世界の「書きかえ」ではなく、自己即ち内面世界の「読みかえ」を行うようになった、
ということでしょう。

そのように考えて現代のライトノベル主人公を見てみると、
なるほど「読みかえ」を行っているようです。
たしかに世界を変える勇者のような主人公は減ってきています。
しかし、平凡な社畜や、無気力高校生などは、なんの特別の力を発揮することもないままに物語が進行し、普段の日常を過ごすなかで、自らの内面世界・自己認識を読み替えているはずです。

4 【脱主人公化】の時代

もはや、さまざまな性別、さまざまな人種、さまざまな世代が、蠱毒の坩堝のような街で暮らす時代。そのような時代を生きる我々は、ソトの世界を変えることの不可能性にわれわれは気づいてしまったのではないでしょうか。
科学も発展しましたが、それは科学の天井が見えるようになったことの逆説です。情報が氾濫して情報格差が縮まると縮まるほど、冷たい現実が目の辺りになってしまう時代。そしてなにより、かつてのライトノベル読者が成人して年を取り、自分のあるいは社会の限界に気づいてしまった現代。

剣と魔法のファンタジーに心を踊らせることはむずかしくなってきました。
そのような社会の様相を如実に示すのが、エンタメ小説界のもエンタメ小説、資本主義の写し鏡ともいうべき、ライトノベルです。読者の傾向にいち早く敏感に対応し、「商業(う)れる」ことになにより重点を置くライトノベル。だからこそ、社会を写した結果として、現代のライトノベルに世界を変革する主人公が減ってきているのではないでしょうか。

いろいろ論が脱線したり飛躍してしまいました(そもそも論理的でも学術的でもない小論です)が、
私の言いたいことは、

【脱主人公化】したのは、ライトノベルではなく、我々の方かもしれない


ということです。
ハッとしませんか、ライトノベルの主人公を分析しているつもりで、実は自分の方こそむしろ脱主人公化していると考えると。ちなみに私は自分で記事を書いていて、これは自分のことなんじゃ……と思い始めました(笑)。
テレビをつけると、夢を持たない若者、昇進意識の低い若者、若者の〇〇離れ、趣味を持たない若者etc…と、〈最近の若者論〉が繰り広げられていますが、その一面がライトノベルにもあらわれているのかもしれませんね。
そこまで極端ではなくとも、歴代のライトノベル受賞作品を見てください。あきらかにハイファンタジーが減っている傾向を感じます。書店を見ても、「なぜかモテる」とか、「いやいやながら」とか、「許嫁の~」とか、「居候の~」という作品が並んでいる気がします。

あるいは、案外社会なんてちっとも変わっていなくて、変わっているのは私だけかもしれないです。脱主人公化した主人公が増えている気がすると言ったのも、私が単にそういった作品しか読んでいないからそのように感じただけかもしれないですし。

ここまで読むと、私が現代のライトノベルを嫌っていると思われるかもしれませんが、そんなことはないですよ。むしろ、今のような現実感のある作品の方が好きなくらいです。ちなみに一番好きなレーベルはスニーカー文庫ですね。このレーベルはファンタジーよりも、現実よりですから、私の好みの作品が多いです。