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避災から被災へ—わたしはあなたの涙になりたい/四季大雅


2011.3.11


あの日から僕はずっと宙ぶらりんだった。
ふらふらと体が浮いていて、地面に足を伸ばしても届かない。そんな感じ。自分の存在がどこにもないような気がして、居場所を探していた。

震災があった翌日、私は逃げ出した。
原発から、地震から。
なんであの日の朝焼けは澄み切っていたんだろう。こういう日に限って自然は美しさをなびかせる。

ひとたび、福島から離れてしまえば、私は《被災者》だった。
哀しい被災者だったかもしれないし、放射能だったかもしれない。
とにかく私は、そういう意味付けをされて記号化されていった。

このころから私は、自分が宙ぶらりんであることを自覚しはじめた。
優しい人からは、震源地から逃げてきた可愛そうな人だった。それは悪いわけではないんだけど、
自分は津波の被害を受けていない。
大切なひとを亡くしていない。
思い出の家はこわれていない。

そう思うと、沿岸にいた人たちに申し訳なくて、申し訳なくて
自分が何かを語る資格なんてあるはずなくて
「私なんて全然だいじょーぶだったよ」
なんて言う。
もちろんそれは本心だし、本当だ。部分的には。

でも、あの日、
着の身着のままで逃げ出して、
大切なものをいくつか捨てて、
一週間も車で各地を転々としたんだ!
その先々でも地震が起きて、怖くて目を覚ましたんだ!

被災者とも言い難く、そうでもないとは言い切れない私は
福島にも、被災先にも帰属できないようだった。
私は避難しただけの、《避災者》に過ぎないのかな。

そのもやもやを十年以上抱えてきた。
けど、そこに言葉を与えてくれた本。

『わたしはあなたの涙になりたい』

この小説にであった、私は《避災者》から《被災者》になれた。
というとなんか不謹慎なきがして、やはりまだ後ろめたさは残っているのだけど……

自分も3.11を契機に喪失した人間だと、私はたしかに被害を受けたのだと認めることができた。宙ぶらりんだった私を着陸させてくれる滑走路がやっと見つかった。

同じ郡山で育ち、郡山であの震災を経験し、何かを喪失した登場人物。
感情移入しないわけがない。揺月が震災の被害者であると自覚していたことにどれほど勇気をもらったか。

彼女も津波を受けた人々への負い目を感じてたわけだけど……
私から見たら、彼女はしっかりと被災者だった。
あれ以前には決して戻れない喪失を抱えた一人の被災者。
どうやら私も被災者をやれていたようだった。そこにある安心感。私も福島を地元だと言えるようになったほっとした飽和感。あの時の自分はただ逃げたんじゃない、しっかりと喪失を抱きかかえて必死に逃げた一人だ。

でもそれだけじゃない。
過去の清算は済んだ。今も肯定できた。
でも、まだこの作品は私にエッセンスを残してくれるらしい。

それは生き方だ。
人間は死ぬ。どんなに偉くても、お金をもっていても死ぬ。死が確定された人生をどう生きるか。余命を宣告されたとして、
どう死ぬかではなく、《どう生きるか》

震災はなにもかもさらっていった。
昨日子供のために料理を作っていた人、
「あしたこそは!」と思って寝ていた人、
誰かのために死んでしまった人。
レジで前に並んでいた人。

あまりにも理不尽な死の連続。私は震災を経験して、「どう死ぬか」ばかりが頭をよぎっていた。花に囲まれて?畳の上で?お金をたんまり蓄えて?

でも、揺月の選択は、どう生きるかだった。
ハッとした。
死ぬことを考えても意味はないじゃないか。それは一瞬。時間軸上の点に過ぎない。その点をどう着飾ったって、何も残らない。
なら、どう生きるか、何を遺すか、何を産みだすか。時間軸上の線をもっと面白く、優雅にするべきだったんだ。

私はまだ死んでない。
なら、死に方なんて選んでないで、生き方を選ばないと!
単純な物語になっても構わない。テンプレで胃もたれしそうな物語。あるいはそれ未満かもしれない。
けど、震災で失ったもの、壊れたもの、そして残された私。それを次に伝えたい。遺して繋いでくリレーに私は加わらなければならない。


すくなくとも残された生を、誰かのために消費できればいい。



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