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「考えないで書く」技術で、疲れず、素早く、大量に文章が書ける

いまだこの「論理的思考の放棄」の実践に試行錯誤している。

登さんは、常人の20倍くらいのスピードでプログラムを書くことが出来るという天才なのだが、彼の「論理的思考を放棄すれば誰でもこれくらいスピードアップできるで」という考え方に、強烈に惹かれている。

自分の場合、プログラミングではなく、文章を、疲れることなく、素早くかつ大量に書けるようになりたくて、この頭の使い方に可能性をめちゃくちゃ感じている。

実際のところ、色々と試行錯誤する中で、この「論理的思考の放棄」の感覚を、なんとなく掴みかけているような気がしている。


頭の中には記憶が漂っている。言葉、映像、体感覚、感情、音声、ありとあらゆる記憶が浮遊している。

人間が夢を見るのは、脳が睡眠中に記憶を整理するからだといわれる。そのときに色々な記憶をランダムに取り出してつなぎ合わせるので、夢は突拍子もないものになる。でも夢をよくよく思い出してみると、「あの夢は、昔のあの出来事と、今日のあの出来事が結びついたんだな」ということが直感的にわかる。

論理的思考とは、夢のようにランダムに記憶を取り出すのではなく、今必要な記憶を意識的に取り出してきて、意識的にそれらを組み合わせる行為のことをいうのではないか。

だとするならば、「論理的思考の放棄」とは、何らかの目的を達成したいときに、必要な記憶を取り出して組み合わせることなく、直接身体を動かす、ということになるのではないか。


これはつまり、身体を動かすことだけに集中すればいいのかな、とまず考えた。文章を書くなら「指の動きに意識を集中」させればうまくいくのかな、と考えたのだが、これは間違いだとすぐに気づいた。

ラケットの素振りやゴルフのスイングといった動作は、身体の細かい動きを意識した途端に狂うといわれる。いわゆる「イップス」というやつだ。動きそのものに意識を集中させると、動きがぎこちなくなってしまうのは、動きを論理的に解釈し、調整しようとすると、今まで無意識に完璧に行われていた動作が壊れてしまうからだろう。論理的思考が無意識の動作を破壊するわけだ。

つまりは、ラケットをふってボールを打ち返すように、文章を書ければいいのだ。



じぶんは今、何も考えずに、机の上においてあるコーヒカップを手に取り、中身を飲むことが出来る。

左手をのばし、カップの取っ手に指をひっかけ、、、ということをいちいち(論理的に)考えたりはしない。

何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、高次脳機能障害を患った方は、こういった当たり前の動作が、脳の障害によってできなくなる。しかしひとつひとつの動作を丁寧に意識し、身体を動かすトレーニングを繰り返すことによって、少しずつまた出来るようになっていくのだそうだ。


コーヒーを飲むように、文章を書ければいいのではないか。


文章を書いているときの自分について内省してみる。何らかの文章をタイピングするために手を動かしているとき、書きたい文章は、すでに頭の中に思い浮かんでいる。

たとえば、「りんごは赤い」という文章をタイピングしたいとする。

このとき、論理的に思考しながら文章を書くと

りんご(名詞) は(助詞) 赤い(形容詞)

という3つの思考をつなぎ合わせるという作業をしている。

しかし、この論理的思考がなされる以前に、「りんごは赤いんだということを伝える文章を書きたい」という欲求が自分の中に沸いている。

「りんごは赤いんだということを伝える文章を書きたい」という欲求が自分の中に沸いた次の瞬間、指をそのまま動かすことができればいいのだ。

コツとしては、書きたいものがあるという「感じ」、それをゴールとして定め、それ以上の文章を頭の中に思い浮かべることなく、手を動かす、動かし切る、という感覚だ。

実際、今まさにそういう感覚で文章を書いているのだが、うまくいったりうまくいかなかったりだ。

うまくいってるときは、タイピング速度が上がる。

書きたいものがすでにある、という感覚を信じてただ指を動かすと、それが実際に文章になって目の前に現れる。

これはもう体感覚を無理やり言語化しているのですごく表現が難しい。

だが確実に、論理的思考を経由しない文章の書き方が、感覚としてわかってきている実感がある。

どこまで突き詰められるかわからないが、とてもおもしろいので引き続き試行錯誤を続けたい。

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