「偉い人」という言葉を使わなくとも、吸収してしまう。
#20241018-476
2024年10月18日(金)
「ねえ、聞いてる?」
早朝5時半からはじまるオンライン・ヨガに参加している。
ヨガ参加者が多数のため、講師から受講者への一方通行で行われる。
アーカイブ動画も利用するが、リアルタイムでの参加はひとあじ違う。ほかの受講者の顔は見えないとはいえ、この朝早い時刻に一緒にヨガをしている人がいるという存在感がたのもしい。
ヨガは20分ほどだ。
朝起きてすぐの体ゆえ、一般的なヨガよりゆるい動きが中心だというが、ここ以外でのヨガ体験がないので私にはよくわからない。適度に負荷があるうえに、体の隅々まで伸びて、頭も体も目が覚める。
ヨガの後には質疑応答タイムが設けられているが、質問がなければ講師の雑談がはじまる。
私はこれを楽しみにしている。
ヨガの話題のこともあるが、大抵講師の日常でのエピソードやそこでの気付きなどだ。本や映画が挙がることもあれば、家族のことといったプライベートな話が飛び出すこともある。
ただこれは講師から受講者への一方向での発信だ。
チャットで言葉を返すことはできるが、なんせ講師1人に対して画面の向こうにいるのは大多数だ。問われない限り、大半が沈黙している。
ヨガから話題がそれると、講師が参加者にとって「おもしろみのある話題だろうか」という想いがよぎるときがあるらしい。
そうすると、講師がいう。
「聞いてる? 聞いてる人いる?」
ヨガ後はいつでも退出していいと講師自身がいっているので、残っている人たちは雑談を聞きたくてそこにいる。もちろん私もそのひとりだ。
だれかがチャットで言葉を返すことで、雑談がまた続く。
聞いているのかわからない状況で話すことは、簡単ではない。
主に音声配信の活動をなさっている方なので、見えない相手に声を届けることは慣れていると思う。それでも、音声配信として配信したいテーマがあったうえで声を録音するのとカメラに向かってリアルタイムに人が存在しているなかで雑談をするのは違うのだろう。
その呼び掛けに今まで私は違和感がなかった。
フレンドリーな雰囲気だと感じていた。
――大丈夫? この話題ってつまらなくない? 聞いている人いるのかな?
このまま話し続けていいのかという講師の戸惑いは感じたが、ノコ(娘小5)のように受け取ったことはない。
「ねえ、ママママ、この人って偉い人なの?」
まず、「偉い人」というノコの言葉に面食らった。
ノコはわりと軽く「偉い」と口にするが、その場合は自分の行いに対して「スゴイ?」という意味での「偉い?」であり、誉めてほしいときだ。
私のなかで「偉い」という言葉には引っ掛かりを感じるので、「偉いね」と返さずに「助かったよ」「頑張ったね」「ありがとう」とその状況に応じて返していた。安直に「偉い人」という説明もしない。
「偉いって、どうしてそう思ったの?」
ノコのいう「偉い」はどういう意味なのだろうと思い巡らせながら、問うた。
「だって、勝手に喋っているのに、『聞いてる?』なんていってさ」
なるほど。
私もノコのふるまいを注意したときにあからさまに無視したり、そっぽを向いたりしていると「聞いてる?」といっているのかもしれない。いや、私は「それが人の話を聞く態度ですか?」というか。
このところ、クラスの男子がケンカをするらしく、先生がたびたび注意しているという。もしかしたら、そういうときに先生が使うのだろうか。
とにかく、ノコは「聞いてる?」という言葉を命令されているように感じ、「指示していい立場の人」だと判断したのだろう。
私はノコに説明する。
この動画は一方通行であり、相槌など相手の反応が見えないこと。ヨガが終われば退室していいので、ママもそうだが、残っている人はこの講師のお話を楽しみにしているので決して「勝手に喋って」いるわけではないこと。
それでも、1人カメラに向かって話していると、興味を持って聞いてくれているか気になるから確認する意味でそういってしまうのだろう、と。
「ふーん」
ノコはわかったような、わからないような表情を浮かべた。
私は尊敬できる人であるときは、「尊敬できる人」だというし、どういう点が立派で見習いたいと思うか具体的に伝えている。
上役のような立場である人のことは、「まとめる役目の人」「なにかあったときに責任を負う人」という説明をし、安易に「偉い人」とはいわないようにしている。
「偉い人は人に命令してもいい」という構図をノコに植え付けないよう配慮しているつもりだ。
家庭でそうしていても、外での人との関わりをはじめ、TVドラマや漫画などから知らぬうちに吸収しまう。子どもがそういう関係性を教えずとも読み取るということは、世のなかにそれだけその構図があふれているということだろう。
盲目的に「『偉い人』だからと従う人」にはなってほしくない。
歯向かいたい気持ちが起きるのなら、「なぜだろう?」と一歩踏み込んでほしい。