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本を読んで夢をみる

「夢をみるのにも才能がいるね」
と猫につぶやく

今、雑誌の取材で書評を頼まれて本を読んでる

読んでる本は「アルケミスト(パウロコエーリョ作)」という僕が人生で最も影響を受けた本だ。
ライターさんは違う本を薦めてきたが、僕はどうしても譲れなくて、無理を言ってこの本を取り上げていただけるようにお願いした。

今まで3回は読んだと思うが、"読んだ本の内容をほぼ忘れてしまう"特性が自分にあるため、改めて読み直している。

取材の内容はと言うと
「本好きに紹介したい、おすすめの本」というコーナーで、
どうやら1/2ページを割いていただけるようだ。

見本を見せてもらうと書評そのものの欄はデザイン上かなり文字数が限られる。

だから本を読んでなくても、おおよその文脈と、なぜ僕がこの本をすすめるかさっと撫でたら終わりぐらいの分量なので(あまり内容が多くて濃すぎてもライターさんが編集作業で困るだけ)
別にこの本を改めて読まなくても問題はないと思う。

しかし僕は真面目だから、
2日後にインタビューがあるので仕事の合間をぬって読んでいる。

本が好きと言いながらここ数年全くと言って良いほど読んでいない。

読むのは漫画か雑誌で、知り合いにおすすめしてもらった本がどんどん溜まっていく一方だ。

なぜ本を読まなくなった?本が好きな店主で売ってるのに?

日常の余韻はsnsをハシゴして、動画サイトを巡回して、
amazonプライムでアニメと映画を見て終わり。

それで十分忙しい。

コロナに戦争に、物価高騰に不景気。
世の中は常に災害で荒れているから、生きるために情報を摂取せねば。

snsの中毒性は、どうやら生存本能に直結し、
そこを刺激するようにTwitterやFacebookは設計していることを以前知ったが(嘘みたいな話だけど、大真面目に人間の依存性を最大化するように研究しつくした結果生まれたのが現在のsns)多分、まさしく、そうなのだろう。

僕も生きるために忙しく、ネットの海を永遠とサーフィンしている。


つまり本を読むスキが無い日常を送っている。
おそらくだが、僕は多くの若者や一般人と同じような日常を送っていると言える自覚がある。

たまにこれじゃいかんと筆を走らせ絵を描くが、これまた自分で言うが、まだアウトプットをする分、まともな時間の使い方だろう。

そんな感じの日常を送る中でふと、
半強制的に本を読む機会が与えられた。

僕の人生で最も影響を与えた本を13年ぶりに読む。
とどうだろう。

未だ20ページしか読んでないが、
全く進まない。

本を読む習慣が無くなったので本が読めなくて進まないんじゃない。
内容が濃すぎて、得るものがたった冒頭20ページでありすぎて、
2、3ページ読んで止まって、また5行読んで止まって、
を繰り返している。

感情が揺さぶられて上に下にぶれる。

本の中の非現実に引っ張られ、
現実の人生に投影し、客観視してまた本の世界に戻る。

そして引っ張られて、教訓を得て、
「これが僕の人生に足りなかったのは、何で今まで気が付かなかったんだろう」
とまた本の内容と現実を比較検討し、熟考し、教訓を得る。

思えば学生の頃が一番賢かった気がする。
ずっと本を読んでいて、好きな言葉は
「孤独は人を賢者にする」だった。

世界の偉人や天才と毎晩対話している気持ちになり、
凡人がスルーしている現実や知識と、
今自分が見て感じている現実との差にがっかりしたり、
賢くなった自分を誰かに自己顕示したくなっていた20代の前半。

今ではお客さんで学生さんがきて、頭がでっかくなってる子を見ると
「分かるよ、僕もそうだった、そして多分その感覚は正しい。君は間違いなく今、世間一般の人より高い知性を持っている。」
と心の中で思っている。

そして同時に、賢い若者には圧倒的に人生の経験が足りない。
いま誇示している知識は君が自分で得た人生の経験や教訓ではなく、偉人から聞いた見聞にすぎないんだよ。思考は穴や偏りだらけで成熟されていない。まだまだ青い。
とも感じている。

話を戻そう。

本をひたすら読んでいたあの頃は、なぜ本をそんなに読むことができたか?
引いては今なぜ本を読まなくなって、ネット漬けなのか。

本を数ページ読んだ今がおそらく一番客観的に以前と比べることができる。

本の内容は「身になりまくる」からではないだろうか?
と直感的に感じている。

僕が今感じている感覚、それは「sns、YouTube、Amazonプライム」「本」を食(しょく)に例えるとするなら、
sns群はわたあめかな?
まず、中毒性がある。糖分の塊だから食べても食べても脳が欲する。
だけど栄養はなく、スカスカしてて、美味しいんだけど体が蝕まれていく。
あと、糖分の取りすぎでニキビが出来て、肝臓や腎臓も徐々に悪くなっていく。

本はどうかな?
本は種類によって、寿司だったり、オムライスだったりする。
中にはほうれん草のおひたしや、蕎麦もある。

「身が濃い」

でもさ、お腹がいっぱいになると、気分が悪くなる時もある。
食べる時もよく噛んで食べなきゃいけないから疲れる。
わたあめは口の中に入れるとジュワッと溶けるから疲れないし楽。

多分この差だと思う。

本は良い。
今のとこの感覚では、ここ1ヶ月のsnsやYouTubeで得た見識と人生に与える影響より、僕が最も影響を受けた「アルケミスト」の冒頭20ページの方が自身に与えるインパクトが強い。

だからこそ上に下に乱降下する。
それが大人にはキツイ。なぜって明日も仕事があるし、仕事をするにはいろんな情報を得て、行動を起こさないといけないから、気分や知的レベルが激しく上下に揺さぶられる精神状態だと、 ミスが起こりそうな、何かトラブルを招きそうな"気になってしまう"

限られた職務を全うするだけなら、知的レベルはむしろ落とした方が、気楽だし、世間と対峙する時に気が滅入ることが少なくない。

最近の若者は気分が上がったり下がったりするのをとても嫌悪するらしい。
だから映画が見れないらしい。
引っ張られるからね心が。

だからいつも穏やかに過ごせるsnsや"推し"を見てる、らしい。
現実は仕事、不景気、コロナ、戦争で大変だから休日や家に帰った時くらい、気分を上げ下げせず、穏やかに楽しいエンタメを摂取したい。
という願望が強いと聞く。

思った。
それ、僕と同じじゃん。

現実は予想がつかない日々で大変だから、休日くらいsnsやYouTubeに浸けさせて。
口の中に入れたら甘く溶ける"わたあめ"をずっと摂取させてよ。
明日も仕事がんばるからさ、てな感じで。

しかし、僕はもう30代後半の大人だ。

現実を逃げずに直視して、現実(日常)と夢想(本)の中間地点の今いる自分のポジションにアンカーを打ち込むことができる。

夢と教訓とロマンに溢れる、天才が夢想した非現実と、現実の自分の状況の中道に立ち戻ることができる!コントロールができる!

若い頃はひたすら引っ張られて夢追い人となり地に足がつかなかった。
だから僕は本を最も読んでいた大学院の頃、まともに人との距離感が掴めず、辛くてたまらなかった。
それは本が摂取する存在として、自分にとっては刺激的で身になりすぎて、強烈で、濃すぎて良すぎたからだ。

そういう夢追いの、思考や情動が地に足がつかない状態で、日常生活を遂行できる人が、アーティストとして成功してるのかなあ?
なんてことを考えた。

まあ、アーティストは夢想に引っ張られて日常が破綻してしまう人もたくさんいるけど、安藤忠雄のように現実にアンカーを打ち込んで夢を掴み取った強者もいる。

そんなことを考えてたら、つい猫に
「夢をみるのにも才能がいるね」
と呟いた。



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