デリカシーのないぼくが僕になるまで(終章)

★わたしが言いたいのは・・・

「マコトって今までに相手の仕草や表情を見て、その相手の気持ちがある程度読めてしまって哀しくなってしまったことってない?」彼女は誰に向けても話しているようではなかった。僕はもちろんのこと、自分に対しても。口だけが勝手気ままに動いているに彼女の声は空疎に響いた。「話していると相手が何を望んでいるのか大体のところわかってくる。わたしが何をすれば相手が喜び、何をすれば嫌な顔を見せてくるだろうかが話しているうちにわかるの。そうと分かると、すっと哀しくなってしまう。哀しいというのでなければ素っ気なく感じてしまう。相手もわたしも、ものすごく小さな目的に向かって進んでいる気がしてしまうのね。全ての行動が、何かの目的を念頭において行われている。そんなふうに思ってしまう。しかもそれはたぶんじゃなくて、大体のところそうだということ。行われている、ほとんどのことがね。それって、ひどく哀しいことじゃない?何をするのにも目的を持っているだなんて。みんなして同じような理由だと特に」
「目的って、具体的にどういうことを指すんだ」


 ミユは合間を置くことなく呟いた。「他の誰かに認められることや人からよく思われること。感謝されること。お金を手に入れること。自分の生活や自分自身を守ること。感情を発散させること。異性から好かれること。嫌われないこと。自分を見せびらかすこと。自分を知ってもらうこと」ミユが見つめている視線の先を見やると、テーブルの上に置いた陶器のカップに行き当たった。中には僕が仕上げとして入れておいた千切ったハーブの葉が浮かんでいるはずだ。視線をカップに向けると、入れておいたハーブの葉はスープの中へと沈みかけている最中だった。次第にこもる熱さに参ってしまったのか、それともトマトと馴染むあまり引きずり込まれてしまったのか。どの葉っぱもふやけてしまって横合いからのスープの侵入を防ぐことが出来ず覆いかぶさられていく。見ているうちに、数種の調味料が淀む底へと引きずり込まれていった。


 僕はカップから目を離した。少しでも声が陽気に聞こえるように、僕は発音に気を遣って、「君が言っているのはどれも欲だとも言えそうだな。欲ってのはいつもそんな役回りばかりでなんだか悪者扱いされているけれど、これなくしては何も成し遂げられなかったはすなんだ。眼鏡だってコーヒーだって、植物由来の化粧品やハンドクリーム、強力な日焼け止めや仔馬のバッグ、スマートフォン(いくら列挙しても彼女の視線をぶらすことはできなさそうだ。だからといって質の問題でも特になさそうだ)、ピカソの絵も禅宗の本も古来から引き継がれてきた伝統芸能だって。それかもしかすると君は、何かを目的に定めて成し遂げようと努力すること自体悪いことだと言いたいのかい」



「無欲になれとは誰も言っていない」彼女の声は、部屋から外で降りしきる止まない雨でも見ているように落ち着いていた。「その部分が見えてしまうと、その人をどうしてもそのようにしか見えなくなってしまうって、ただそれだけのこと。この人は今、怒りを内から発することを目的としているし鬱憤が晴れることを望んでいる。この人はわたしに良く思われたいと望んでいてそれでこんなに無理して微笑んでいる」彼女は遥か彼方の土地の情景を頭の中で思い浮かべるかのように目を閉じた。あるいは耳に届く雨の音をひとり静かに聞き入りたいかのように。長い休息の後、彼女は目を開けた。声を出すには一呼吸の準備が必要なようだった。「どんなに頭から追い払おうとしても追い払えない。わたしに構わず頭が勝手に判断して、経験から結論を引っ張り出してきてしまう。もっといけないことはわたし自身が背後にあるそういう目的を知っておきながら行動に移してしまうということ。鬱憤を晴らそうと相手が思っているのなら、わたしはそれまで付き合わなくてはならないだろうと考えてやっぱり最後まで話を聞く。わたしへの好意で微笑んでくれているのなら、その微笑みの意味するところがちゃんとわかっていますよという合図として嫌でもわたしも微笑みを返してしまう。使おうと思っていなくても使ってしまう。そういうのってもうわたしの無意識のうちに埋め込まれているの。あの人はこうしたいと思っているとか、こうしてあげたら喜ぶだろうとか。そして現にその人の願っていることをわたしはやってしまうし、そうしてあげると実際相手が喜んでいるようにも見える。でも同時に何でこんなことをやっているんだろうとも思ってしまう。相手は自分の役柄や状況が全部わかったうえで建前としてやっているのか、それとも本当に何もわからずやっているのかわからなくなってしまう。建前としてやっているのならなぜそんなことをするのかしら?ふたりとも結論は見えているのに。わかっていないのならわたしはとことん嫌な人間になってしまう。だって相手を自分のいいように誘導しているのだから」


 彼女の唇の暗示をかけているような小さな動きでもひとたび止まってしまうと、なんだか部屋に一人取り残された気分になった。他に物音がないからなおさらのこと。「でもさ、そうやって対応するのはあながち嫌だとも思っていないんだろ。ゼミ仲間のアヤコが寄せるどうでもいい恋愛相談を休みの時間ごとに親身になって聞いてあげるのも、高校時代からの友達のエリカが電話口で君に寄せてくるモラトリアムならではの悩み事を適切な相槌を挟んで夜通し聞いてあげるのも。いや実際さ、君は嫌と思う以上にそんな自分の立場が悪くないとさえ思っている。まあそれでもいいじゃないかって。時間は取られるけど、そういう友達がいることは信頼されているという裏返しでもあるのだしって。そりゃ君みたいなところまで気が回る人はめったなことではお目にかかれないし、君のように客観性、あるいはその場の設定その他役回りに関する悩みを抱えこんでいる人はそれよりももっともっと少ない。実際、それは素晴らしいことだ。そこまで気が回る君は貴重な人材といってもまず間違いない。もっと誇っていいぐらいだ」
 僕の声は暗い部屋に速やかに取り込まれていった。明かりといえば窓からの光だけが頼りだ。マグカップの陰影がテーブルの上にぼやけてのっかっている。だけど、僕もミユも明かりをつけようと立ち上がることはなかった。僕ら二人とも下を向いて、次第に深まる闇に取り込まれていくのにさしたる抵抗をみせはしなかった。


「なあ、君は一つのものから多く得ようとしすぎなんだよ」僕は続けて話し手を引き受けた。「相手の意図が見え透いてしまうのが嫌で、相手に関わるのに疲れて、自分もそう見られてるんじゃないかとびくびくする。加えてやっかいなことに、君はある程度のところまでそれらを取りまとめて上手いこと抑え込んでしまえている。ジャグリングのように次から次へと手を加えてね。でもあまりの忙しさにそのことがだんだんと手に負えなくなってきている。ボールを投げる手には疲れが見えはじめているし、そこにもし新たに一つボールかクラブでも加わってくれば対応に追われ、落とすかもっと忙しなく手を動かす羽目になるだろう」僕は彼女の前で下手でもいいからジャグリングを見せてやりたかった。力の限りいくら高くボールを投げ上げようと、いつかは手元に戻ってきてしまうのだということを、ミユに見せてやりたかった。
「どれも余さず望むことなんて出来やしないんだよ。一つのものを取ったのなら他のものは我慢しないと。キャンディーを舐めてみたかったら手に持っている綿菓子は信用にたる誰かさんに持ってもらわないと。それは別に言うほどひどいことじゃない。意識的にせよ無意識的にせよ誰もがやっていることだよ。もし君が全部を取ろうとするのなら、どれもおざなりにせざるを得ない。それは全てを失くしてしまうってことだ。もし君が何かを本当の意味で手にしたいと思うのなら、一つの物を手に入れたいと切に願うべきだ。他のものに目もくれずそれに飛びつくべきだ」


「あなたはそういうけれど、口で言うほど簡単なことではないのよ」ミユは分厚い石の壁に手を触れて聞こえもしないその先へと言い聞かせているように言った。「そうなるためには自分を強く持っておく必要があるし、他の人と違っていてもそれを変に思わないようにいつも気を張っておかなくてはならない。それってとても大変なこと。少なくとも、わたしにとっては」
「それは間違っているよ。それは君だけが経験している問題じゃない。大小の差こそあれ誰にとっても同じなんだ。僕にとっても、かの有名なギリシャの哲学者プラトン君だって同じだったに違いない。彼の崇拝して止まないソクラテス君だってそうだったはずだし、もちろんソロン君も友達のペイシストラトス君も同じだったはずだ。ただ単に表に現れちゃないからそう見えてしまうんだけなんだ。かくいうジョージ・ワシントンも妻の度重なる小言にほとほと参っていたかもしれないし、どこかの決断力優れる敏腕女社長も、年頃の娘に手を焼いて、家では赤ワインばかり飲んでソファに寝そべっているかもしれない。まあ洞察力に優れた目をお持ちの君に言う必要なんて最初からないんだろうけどね。そんなこと、僕に言われないでもとっくに気づいていることは知っているよ。自分を保持することが誰にとっても楽な作業じゃないって、君も知っていただろ?程度の差こそあれ、みんななんとかして自分を奮い立たせている。偉大な彼らがなぜそこまでして自分自身であり続けようとするか、自分自らの手で選ぶことにこだわっているかというと、おそらくそっちの方がいいと思った、ただそれだけの理由なんだ。それは選択の問題なんだ。人と同じ道で可もなく不可もない生活を選び取って数年先に待っている各種イベントに乗り気じゃないまま従うか、同じイベントを迎えるにしても自分が一つ一つ目を通し選び取って納得づくで従うか。どうせなら僕もそちらを取りたいもんだ。彼らのように自分で納得して選び取っていく方をね」


「あなたのことなんて知ったことではないわ」彼女の声は部屋によく通った。彼女が本気を出せば、僕の声なんか目じゃないのだ。「あなたがどちらを好むかなんてね。勝手に納得していなさいよ。それにそんなことは言われないでもわかっていたわ。あなたが言うことなんて全部ね」
「それはなんと━━」
「ねえ、ちょっと黙ってくれない。ほどほどってところをまるで知らないんだから。あなたと話していると、たまに本当に手で耳を塞ぎたくなるわ。推測する余地を残さないようにしっかりとね。わたしだけじゃないってことぐらいあなたに言われないでもとっくに知ってるわよ。外と中身は違うし、みんな何かしら人に言えない欠陥を抱えている。それがあなたの言う妻からでも娘からでも。プラトン?ワシントン?そんなのあなたが口に出して言いたいだけじゃない。みんながみんなあなたのように元気溌剌、弁舌爽やかとはいかないの。あなたこそ、そろそろわかったらどうなの。みんなあなたほどには元気じゃないって。少なくとも放っておいてもらいたい時があるって。あなたがもし心の隅に、ほんの少しでいいから良識的な態度を住まわせて優れた嗜みを持って人と接してくれていたら、外見だけじゃなくって行動や言葉なんかも意味のないものだとわかってくるはずだわ。だってそうじゃない?罪を犯した人は全部が全部悪い人?寄付を募り慈善団体に資金を与えていれば善人ってわけなの?もしかしたら罪を犯してしまったのは腹を空かせた妹にパンを与えたい、ただその一心からきたのかもしれないし、寄付するのは善人というレッテルを貼らせて商品を買ってもらいたい企業方針からきたものかもしれない。言葉もそう。言葉は口に出した瞬間にただの音にしかすぎなくなる。もちろん感情を込めて話すことはできるわ。でもね、それは感情を込めている時点でダメなのよ。そこには最初から感情というものがのっかっていない。もし元から感情をのせて伝えることができるのなら、わざわざ改めて感情を込める必要なんてないはずよ。無味乾燥な音の羅列。それをわたしたちは頭の中で変換したり並べ替えたりしているだけ。後から何でも付け足すことができるし、実際思ってもいないことを感情豊かにごまかして言うこともできる。言葉って本当は何にも表してくれない。いくら積み上がったとしても何の根拠にもならない。それはどこまでいっても仮定の話で、それだけでそこから抜け出せるってことは決してない。いくら繰り返そうともいつまで経ってもそれは同じ。一つの地点でもがいているだけ。いくらまくしたてて着飾ってもその人本人を十分の一でさえ表したりしない。それどころか千分の一も、一万分の一ですらも表したことにならない」


「動かずしゃべらず、ただ岩のように静寂に浸るのみ。それじゃ最後には以心伝心、語らずとも伝わるの世界になるな。みんな目を瞑ってひたすらに読心に励むってわけか。そういう時って手ぐらいは繋ぎあってもいいのかな」
「わたしが言いたいのは」僕の言葉はすぐにミユの言葉によって覆い被せられた。「あなたがもうちょっと真剣に相手のことを思っていてくれればってこと。たまにはわたしの話にも耳を傾けてちょうだい。あげつらったり、何か上手いことを言ってはぐらかすんじゃなくってね。やろうと思いさえすれば、あなたにはそれができるはずよ。あなたは人並みに考える力があるし、ある分野においては人より秀でているところさえあるのはあなた自身もご承知の通りよ。だけどね、もうちょっとそれを分散させてくれない?一点に全てを集中させてしまうんじゃなくって。聞いている、ただそれだけで頭がかき乱されてしまう時がある。自分ではわかっていないかもしれないけど、あなたって持っている力を総動員させて話しているような時があるのよ。そういう時ってものすごく疲れる」


 彼女の声の響きが収まったところで、僕は話しはじめた。「僕のなけなしの能力を一点に総動員しないことには、君のような知性のある女性と対等に話すことができないからだ。もし僕が手を抜いてしまったら、たちまち君は洗濯置き場で拾い上げたずいぶん長い間行方知らずの靴下を見るような目で僕を見るか(現に今もそのような目つきで僕を見てくれている)、それとも僕の調子が悪いのではないか、昨日読み終わった小説に出てくる主人公の生末にいまだ後ろ髪引かれているのではないかと、あらぬ誤解を君に与えてしまうことだろう。それに君と話すときはいつでも全力でありたいものだと僕は思っている。だってそうだろ、面白いものにはできるだけ精力的に取り組みたいし、大事な物にこそ持てる能力全てを傾けたい。それが他では得難いようなものであればあるほど、その傾向は顕著になる。それってみんな同じなはずだろ。誰だって一つや二つ、何を差し置いてもっていうものを持っているはずだ。そして幸運なことに僕にとってのそいつは、いつも近くの手の届く範囲にある。それでも着手しないというのなら、それは僕の怠慢か僕にはそうするだけの技量が初めからなかったという証明にしかならない。どちらにしてもとても分かりやすいことだけは確かだ。やること自体はたった一つに決まっているからね。どうせ取り組むのなら、できるだけ後悔のないように事を進めたい。後でみじめに言い訳しなくてもいいようにね。あと僕が気を揉むとすれば、蓄えてある情熱を、蓋の裏に引っ付いたところまで余さず掻きだして出し切ってしまうことだけ。ただそれだけなんだ。でもそれだって不安じゃなくて期待というほうに近いな。その量如何については僕自身が一番楽しみにしているんだから。そしてそれら僕のありったけを受け止めてくれるには都合のいいことに、受け手である君は類まれなる知性を持っている。それは哀しいとか空しいとか口ずさむのに使うんじゃなくって、それを手にしてなけりゃできないことに使うべきだ。もっと素敵な、得難いことにね。君の知性の深さを間々覗いたことのある僕としては、どうか違うことに使ってほしいと願うばかりだよ」


 顔を擡げ上げたミユの表情はすっきりとしていて、知性というものすごく曖昧な事柄について再度考えを改めているようだった。考えた末に出た結論がどんなものであっても打ち込んでやろうと画策している、そんな表情をしていた。
「じゃあその」しばらくしてからミユは口を開いた。まるでなにかとっておきのものを提案するかのように、ミユの口調は伸びやかだった。「あなたが考えている正しい知性の使い方について、わたしにご教示して下さらない。あなたが作ってくれたスープとハンバーグを口にしながら」
 僕はキッチンへ向かった。もちろんハンバーグは冷めていて、湯気なんて望むべくもなかった。僕は冷めたハンバーグをフライパンに戻し、火をかけた。温まるのを待つ間、客が時間を持て余していないかどうか確かめるべくテーブルへと舞い戻った。僕が戻っていくと、ミユは前かがみになって座っていて冷めてしまったはずのカップを手に包んで口に運んでいるところだった。「温めるよ」と僕は声をかけた。彼女は一口飲み終わっても、手に包み込んだまま中を覗き込んでいた。それで僕もミユの後ろからカップの中を覗き込んだ。ミユの手の内にあるカップの中では一枚のハーブが浮き上がっていた。その元気な姿を僕らに示してくれていた。沈んでしまっても、またいつか浮かびあがってきてくれさえすればいい。一人では力足りず、誰かの手を借りることになったとしても。

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