見出し画像

デリカシーのないぼくが僕になるまで

 八時のニュース。テーブルに置いてある料理はサンプル品みたいに生気がない。
「ああ疲れた。今日も長かった。くそっ、まだ水曜かよ」
 父さんは壁にかけられている時計を見やる。
「お疲れのようだから、ご飯の前にお風呂に入ったら」
「いや、先にご飯だ。今日はシャワーだけ浴びる」


 父さんは上着を席の横に下ろし、キッチンに向かっていった。首元のネクタイを緩めながら冷ぞう庫をのぞく。父さんが冷えた発泡酒を取り出している間に、ぼくはテレビのリモコンを父さんの脱いだジャケットの下に潜りこませておいた。
 父さんが戸だなからナッツと小皿を取り出す。ナッツは小皿に乗せ、発泡酒は缶のままテーブルに持ってくる。シャツの裾をズボンから引っ張り出し、上着の横にネクタイと腕時計を置き席に着く。父さんはきょろろきょろとテーブルを眺めまわす。
「冷めちゃったから温め直すわね」
 父さんはテレビまで行き、しゃがみ、テレビ台の下の積み重なった新聞紙を縦にきれいに並べる。立ち上がりまたテーブルまで戻ってくる。
 父さんはシャツの第一ボタンを外す。それで出来たすき間に手を突っ込んで首筋をかく。片手でティッシュ箱や箸立ての位置を移動させる。置いた腕時計の下も見る。


「リモコン。リモコン知らないか」父さんの首が、かきむしったところだけ赤くなっている。その上を重ねるように同じ方向でかきむしる。赤い線が何本も出来る。ぼくはテレビに映るアナウンサーの顔をじっと見る。絶え間なく動く、口の動きを。「リモコンはどこだ」母さんがトン汁を温め直してテーブルに持ってきた。白い湯気が立っている。
「さっきから何言ってるの」
「リモコンどこだって言ってんだ」 
 母さんが目を落とし、席に着く。
「こんな人はほっといて、私たちはいただきましょ」
 小松菜のお浸し。トン汁に入ったいちょう切りの人参。
「見ないでいろってことよ」と母さん。
 じっと前を向いていた父さんがやっと椅子に座る。上着を横にずらし自分の領地を広げる。「なんだよ」と父さん。「誰がここに置いたんだ」
 母さんは唇の間隔を開けたまま、かんでいる。「そこに上着を置いたのはあなたでしょ」
 ニュースからバラエティー番組に切り変わる。ボリュームが上がる。


「めしはあるか」と父さん。母さんはパタパタと箸を大皿に乗せて、立ち上がる。キッチンにご飯をよそいに向かう。
テレビに映るお笑い芸人を見て、父さんはニッと笑う。小皿からナッツを一つかみ取り、口に投げ込みガリガリ食べる。
「どれぐらい食べるの?」とキッチンから母さん。「ねえ、どれぐらい?」
 大根、味噌で味付けされたスープ。焼いた鶏肉。冷たい。
「なんか言ってんのか」テレビのボリュームが落ちる。父さんは振り向き返りキッチンの方に顔を向ける。
「ご飯の量、どれぐらい?」
「いつもと同じだ」父さんは眉根を寄せる。「聞かなくてもわかるだろ。それぐらい」振り向き直って、離さないでいたリモコンでテレビのボリュームを元に戻す。缶のふたを開け、一口飲む。喉が下へ行って、また上に帰っていく。またニッと笑う。
「真は?」
「少な目でいいよ」
 母さんと黒目がかっちりと合う。でも母さんは目を細めただけで何も言ってこない。


 父さんはコマーシャルを飛ばす。行き過ぎた分だけ戻す。戻し過ぎたのか早送りにする。再生する。
 トン汁の中の縮れた豚肉。スープ。ゴボウ。ダイコン。ニンジン。ホウレンソウ。トリニク。ゴハン。ゴハン。
「くだらねえ番組だな」父さんは笑い、五本の指がテーブルを叩く。
 母さんは姿勢を正して食べている。
「マコト、今日は何をした」ぼくは父さんの横顔を見る。開いた唇。父さんがぼくの方に向き直る。父さんのほっぺたからしわが見る見るうちに隠れていく。鼻の穴が横に広がり縮む。
「なにもしていないよ」
「何もしていないってことはないだろう」父さんはゲラゲラと笑う。「ほら」父さんは何かを思いつく。「お前が出した読書感想文。あれ、どうなったんだ」テレビのボリュームが落ちる。
 ホウレンソウ。ゴボウ。グルルルルル。
「夏休みに出した作文のこと?」と母さん。
「それ以外になにがあるんだ。あれはオレも知恵を出してやったからな」
 母さんの箸の動きが止まる。「クラスの代表に選ばれたのよ。校内放送で読んだらしいわ」
「聞いてないな。いつのことだ」
 ミズケ。ネバネバ。センイ。ギュルルルルル。
「そうね。二週間前ぐらいだったかしら」
 テレビからの笑い声が響く。でもずっとは続いてくれない。
「本を読むのも少しは役にたったようだな」
 父さんは発泡酒をごくごくと飲む。

サポートしてくださると、なんとも奇怪な記事を吐き出します。