fourlieu
僕の仕事は、いわば「顧客満足度アンケート」に相当するものが、毎年行われる。その時期と回数は、複数ある仕事先によってまちまちだ。 そして、その一つであり、かつ最も大きなものの一つに関して、その結果が先日返ってきた。結果は、昨年よりやや下降。あまりうれしい結果ではない。 今年は、職場の環境に微妙な変化があり、それは微妙ではあるが、僕にとっては大きなものとなりうる変化でもあると認識していた。ここで結果を出せば、今後の仕事に大きなプラスの影響が出ると思っていたのだ。 しかし
2年ほど続けてきた、ピアノとのデュエットのライブ。「最後」となるライブが終わった。 「最後」と書いたが、文字通り最後にするつもりは、実はない。とはいえ、現実問題として、しばらくできなくなることは確実。再演できるかどうかも、何とも言えない。 もちろん、続けたいという思いはある。けれども、このような形で演奏活動ができること自体が奇跡のようなもの。偶然の巡り合わせが続いたことによる成果だ。努力によって勝ち取ったものではない。だから、巡り合わせによって機会がなくなったとしても、
僕は、努力にはそこまで大きな価値を認めていない。 努力が不必要だと言いたいのではない。むしろ、必要になる場面の方が多いだろう。何を得るためには努力が不可欠であることも多いのは確かだ。 けれども、その反面、努力が報われることはそう多くない。「報われる」ということをどのように捉えるかにもよるが、求める結果を得るために必要なことは、努力以上に運や縁が重要だと思っている。努力だけでどうにかなるものではない。 努力の意味は、報われなかったときに、自分や他者から許される可能性が
久しぶりの人たちと、初めての場所で行った演奏は、会場となった空間が素敵だったこともあって、結構気持ちよく終わることができた。 いっぱいの本が壁一面に並べられたその空間は、本当に本当に気持ちよくて。近所や通勤途中にあったなら絶対に通っていたと思う。なんとなくだけれど、スタッフが気持ちいい人だからなんじゃないだろうか。 色々考えた末に新しく買った楽器も、その時に初めて人前で吹いてみた。重さを感じるけれど吹きやすいのはわかっていて、ただそれでもやはりバテてしまうことをカバー
以前、知り合いの女性ミュージシャンがこんなことを言っていた。 確か、SNSでも楽器に関する交流をしていて、その結果としてこうした結論に達したと言っていた記憶がある。記憶なので曖昧だけど。 だが、似たようなことをやった上での僕の結論は真逆だ。 SNSで垣間見る人は、同じ楽器をやっていようがいまいが、そのほとんどができればこれ以上近寄りたくない人だ。リアルで会うならばそこまででもないのだという気もするが、SNSで見る限りでは絶対に好感を持てない。 会話ではそうでもな
1 ここのところ、極めて漠然とした「何かが違う」という思いに囚われている。 何をやっても「これじゃない」という感覚がつきまとう。物事への対応だったり自分なりの方法だったりが、全て芯を食ってない感じ。間違っている、という印象ではない。けれども、どこかずれているような思いを拭えない。そんな思いをここのところずっと抱えている。あらゆる場面で、仕事と趣味とを問わず。 その正体は、今のところ全くわからない。けれども、そう思ってしまう理由は、これまた漠然とだが、思い当たる節があ
人は生きる上で、他者の意向や社会の常識と折り合いをつけないわけにはいかない。これは当然の事実だ。 これは、人は社会のなかで生きる以上、かならず「表に出してはならない部分」を抱えることを意味する。その量や質には個人差はあるかもしれない。けれども、自分の本心を丸出しにして生きていける人は、そう多くはあるまい。 だからこそ、ある人はスポーツやライブなどに赴くことで、社会と自分の齟齬から生まれる余分なものを昇華しようとする。あるいは、酒を飲んだりうまいものを食ったりして鬱憤を晴
1 僕は人生のある時期から、自分の知識や技術で飯を食うことにした。 それ以来、最も重要なことは、自分の食い扶持となる知識や技術をどれだけ高めるかであると思っていた。もう少し正確に言えば、それが最も重要であると思おうとした。 その理由は、そもそも人脈を作ったり交渉をして相手を翻意させたりということが、とことんまで苦手だったから。もう本当にそういうのができなかった。そんな感じだったから、人間関係というより知識と技術で飯を食うという選択肢を取ることにした。ビジネス的な人間
トランペットらしい音や演奏。 といえば、ブルックナーの交響曲のような重厚なオルガニックな響き、バロック音楽に見られる天上から降り注ぐような明るく崇高な響き、あるいは空間を切り裂くようなハイノート、楽器のベルがビンビンに鳴るような華やかでヴァイタルな音やプレイ。思い出されるのはこんなものだろうか。 でも、自分は、そこそこ長い期間トランペットを吹いていて、そのどれも目標としていなかったような気がする。もっとも、そういうことをやろうとしても、技術が足りなすぎて出来ないと思
なんとなくですが、このサカつくEUのプレイ日記、別のアカウントでやることにしました。移転先はこちらになります。 プレイ日記自体は続けるつもりです。単に見づらいというか、書くものを目的ごとに分けられるならその方がいいよなーとおもったので。 そして、移転を機にまた一からプレイし直します。まあ、それもまたいいかなーと。といっても、序盤はあまり変わり映えしないと思いますけど。 ※これまでの記事は、削除はしませんが下書きにさせていただくことにします。(3/1追記)
1 SNSなどを見ていると、昨今は「その人の好きなものを否定するな」というのが基本的なマナーであるらしい。 まあ、わからないでもない。自分の好きなものを否定されると嬉しくないのは確かだ。僕の大好きなChet Bakerをディスられると、「なんだこいつわかってないな」とか思うだろう。また、かつてとある知人のピアニストに、別の知人が「そんなピアニスト好きで追いかけてたって何も面白くないよ」と言ったという話を聞き、流石にそれは余計なお世話以外の何ものでもなかろうと思った記憶が
その昔、『団地ともお』という漫画がありまして。その作中では、小学生に人気の「スポーツ大佐」という漫画があるという設定になっておりました。柔道着を着た口髭を生やした正義の味方、スポーツ大佐が主人公です。『団地ともお』の主人公ではなく、その漫画内で流行っている漫画の主人公がスポーツ大佐です。面倒ですけど。スポーツ大佐はお供のカラスとクマとともに、悪をやっつける正義の味方なのです。団地に住む小学生たちにも大人気という設定でした。 さて、『団地ともお』内の展開では、連載漫画「スポ
SNSを見ていると、その内容に絶望的な気分になることの方が多い。厳密に言えば、「多い」のは統計的なものというより主観的なものなのだけれど、僕自身が受けるダメージのようなものは、主観的な印象として「多い」ことには変わりがない。 困ったことに、これはリアルな人間関係の中でもあまり変わらない。仕事をしていると、他人の発言に眉を顰めたくなることは案外多い。趣味の世界でさえ、そういう場合がある(こちらの分野では、SNSや仕事とは少しだけ方向性が違っているのだけど)。 だから、他
数ヶ月前、とある単発企画ビッグバンドに誘っていただき、そのライブが先日無事終わった。大勢のお客さんにご来場いただき感謝の極み。 ごくごく一部から、演奏についてのお褒めの言葉もいただけたのも有り難いこと。もちろん、お褒めの言葉を100%額面通りに受け取るわけにはいかないと思うが、それでも100%ウソやお世辞として受け取るのも失礼にあたる。とりあえず、そう言っていただいたことはありがたく受け止めたい。 ビッグバンドに誘っていただく機会は、まあまあある。本当はコンボジャズの
1 大河ドラマ『どうする家康』で、関ヶ原の戦いで敗者となった石田三成が語った言葉だ。なかなかいい台詞だと思って見ていた。 おそらく、ドラマの演出としては、石田三成に「戦乱を求むる心」が確かにあり、それを本人も本懐としているというものだったように思う。けれども、その戦乱を求める心は、三成の現実より理想を追い求める指向性によって生み出されたのではないか、そんなふうに想像している。 おそらく一般的イメージがそうであるように、ドラマ内でも石田三成は、有能ではあるが人心を得る
1 僕がジャズをやり始めたのは、とあるビッグバンドに加入したのがきっかけだった。 いや、厳密には、この言い方は適切ではない。それまでオーケストラでクラシックしかやったことがなかった僕が、参加できそうなオケが身近になくて、だったらそれまでやったことないジャズをやってみようと思ったのだった。そう思うようになった細かい理由だの経緯だのは忘れたけれど。それで、ジャズの演奏を学ぶ上で、とりあえず集団に参加して色々教えてもらおうと思って、ビッグバンドに入れてもらうことにしたのだった