価値判断の基準のありか

 数ヶ月前、とある単発企画ビッグバンドに誘っていただき、そのライブが先日無事終わった。大勢のお客さんにご来場いただき感謝の極み。
 ごくごく一部から、演奏についてのお褒めの言葉もいただけたのも有り難いこと。もちろん、お褒めの言葉を100%額面通りに受け取るわけにはいかないと思うが、それでも100%ウソやお世辞として受け取るのも失礼にあたる。とりあえず、そう言っていただいたことはありがたく受け止めたい。

 ビッグバンドに誘っていただく機会は、まあまあある。本当はコンボジャズの方が好きなのだけど、なかなかそちらでお声がかかることは少なく、声がかかるのは大抵ビッグバンドなのが現状。複雑な思いもあるが、誘っていただけることそれ自体は有り難いことである。
 ただ、当然のことながら、身近にある全てのビッグバンドからお声がかかるわけではない。そのときに、「ああ、自分はこの人の企画からは声がかからないんだな」と思うことがあって、自分の身勝手さというか業の深さのようなものを垣間見たがしてくる。そこまでビッグバンド好きではなく、むしろコンボ好きを公言しているはずなのに、いざお声がかからないと不満なんだなあ、そういう自分を発見してしまうのだ。もちろん、こうも思う。それは流石に我儘に過ぎないんじゃないか、と。

 おそらく、僕はこれまで、演奏の誘いが来ることを自分の演奏に関する評価として位置付ける傾向にあった。
 もちろん、それが一つの評価であることは間違いないだろう。また、自己満足に陥らないための戒めとして、他者の視点を取り入れることは、決して間違いではない。けれども一方で、演奏依頼をもって自身の評価とすることは、評価の軸を自分の外部に設定するということ。言い換えれば、自分の内側に基準を作らないことにもつながる。これは場合によっては危ういことでもある。
 そもそもが愛好家にすぎない僕は、そうした外部の声を自身の評価軸にする必要などない。さらにいえば、そのような評価を求めると辛くなるだけで、愛好家であることと矛盾した結果になってしまう。
 だから、本来であれば、僕は僕のやりたいことに従っているかどうかだけを自分自身の基準とすればよいはずなのだ。頭ではわかっている。

 そして、やりたいことをやれば良いという規範を実現するために必要なこともわかっている。それは、何かを捨てることだ。


 僕は技術的な達成度においては、多くのアマチュアにさえかなわない。だから、なんでもできるようになろうとは思わない。自分ができることの範囲で、できるだけ高い達成度を実現したい。その結果として、できることが広がればもっといいし、おそらく必要になることも多いだろうけれど、広げることそのものが目的ではない。
 それが実現できたとしても、結果として、できることとできないことが明確な、使い勝手の悪い演奏者になるだろう。結果として、共演者として選ばれることは少なくなるだろう。それは仕方ないことなのだと思う。自分が望んだ結果なのだから。
 共演者として選ばれることが少ないと、聴衆から選ばれることも少なくなるかもしれない。結果、演奏する機会を得られても、集客に苦労することになるかもしれない。それは、ある程度受け入れなければならない。ただ、演奏する機会が得られたならば、それなりの責務は果たしたいとも思う。純粋に演奏能力による集客が難しければ、別の形を模索することも考えなければらないし、それは現に実行しようと自分なりに努力をしている。

 要するに、やりたいことをやるのが目的なのだから、その現実的なリターンを過剰に期待するべきではない。
 価値判断の基準は、まずは自分。それは独善という意味ではなく、外部との交渉を経た上で、最終的に自分。それが結果として外部に受け入れられなくても、それは仕方ないことだ。

 あまり独創的な結論ではない。尤も、物事に正解というものがあるとするなら、その大半は平凡な内容なのではないかという気もする。

 

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