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目標でも誓いでもなく

  SNSを見ていると、その内容に絶望的な気分になることの方が多い。厳密に言えば、「多い」のは統計的なものというより主観的なものなのだけれど、僕自身が受けるダメージのようなものは、主観的な印象として「多い」ことには変わりがない。
 困ったことに、これはリアルな人間関係の中でもあまり変わらない。仕事をしていると、他人の発言に眉を顰めたくなることは案外多い。趣味の世界でさえ、そういう場合がある(こちらの分野では、SNSや仕事とは少しだけ方向性が違っているのだけど)。
 だから、他人と関わっても碌なことがない。まともに信頼して話せる相手など、片手に収まる程度しかいない。大半の人間は、不快極まりない言葉を発する、可能な限り近づきたくない生き物だ。そんな中にどっぷりと浸かって、自分の精神を腐らせたくはない。

 けれども一方で、そういう人たちもある部分では高い能力を持っていたりする。あるいは、愚痴の一つや二つ言いたくなっても当然だろうという状況の中にいる。要するに、その発する言葉だけでその人を全面的に否定することも、おそらくは難しいのだ。だからこそ面倒だと言えるのだけれど。
 とはいえ、自分の精神を腐らせたくはないので、他人とは距離を置きたいとは思う。距離さえ保っていられれば、そういう人たちを全否定しなくて済む。人間に対するネガティヴな感情を発さなくても済む。

 もしかしたら、多くの働く人たちは、そういう人たちと上手に関係を構築しながら業務を遂行しているのかもしれない。僕にそうした能力が欠けているだけなのかもしれない。僕のこれまでの人生を振り返るなら、可能性としては十二分にありそうなことだ。
 ただ、そういうのはもういいとも思っている。自分はそういう作業ができなかったから、今こうしている。そのことに何の後悔もない。もう、自分にできないことのために労力を注ぎ、そしてできないことによる余計な落胆を味わうつもりはない。
 幸いにして、自分なりの仕事や働き方に出会い、それなりの成果も出せている。努力をするなら、自分に可能なことを高めるような方向で努力をしたい。


 
 今は、こう思っている。
 こだわりというものは、他人に向けるのではなく、自分に向けるべきである、と。
 そして、そのこだわりの内容は、必ずしも他者と共有されるという意味での普遍性を持っていなくてもよい、と。
 こだわりを他者に向け、他者に対して怒るべきときは勿論あるけれど、その動機は「情報」によるものではなく、身体を媒介にした実存的な要素に依拠するべきである、と。

 大切なものごとや大切な人は、公開するようなものではなく、ひっそりと、静かに、その価値を育むべきものだろう、とも。

 
 そのように生きられるいいな、と、そう思っている。
 そして、それでも対話が可能な人は、ほんとうにほんとうに貴重な存在だ。


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