人間がきらい

 以前、知り合いの女性ミュージシャンがこんなことを言っていた。

自分と同じ楽器をやっている人に悪い人なんていないんですよ。

 確か、SNSでも楽器に関する交流をしていて、その結果としてこうした結論に達したと言っていた記憶がある。記憶なので曖昧だけど。

 だが、似たようなことをやった上での僕の結論は真逆だ。
 SNSで垣間見る人は、同じ楽器をやっていようがいまいが、そのほとんどができればこれ以上近寄りたくない人だ。リアルで会うならばそこまででもないのだという気もするが、SNSで見る限りでは絶対に好感を持てない。
 会話ではそうでもない内容だったとしても、文字にするとその棘みたいな部分が際立つことが多いのだろうか。とにかく物事や他人に対するネガティヴな感情の発露と、それを通してそういう言葉を発する人間の嫌な部分を、それこそ嫌というほど目の当たりにさせられる。もちろん、実際の人間性よりもネガティヴな部分が誇張される形でこちらに伝わっているのだとは思う。だが、そうだと分かっていても、わざわざ不快な思いを抱く対象に対して、あえてより深く、あるいはより正確な理解をしてみたいとも思わない。

 そうした印象は、たとえホビーとしての趣味を共有していたとしても、実のところほとんど変わらない。
 楽器を趣味にしていようが、ジャズに関わっていようが、SNSで発せられる言葉の大半は、愉快な気持ちになることの方が圧倒的に少ない。有益な情報もあるのでとりあえずつながっているけれども。

 尤も、僕だって似たようなことをしている自覚はある。その意味では、お互い様である側面はあるだろうと思う。だから、相手を責めたいとは思わない。 
 ただ、だからといって、僕の不快な感情が消えるわけではない。


 もっとも、そもそも対面であろうがウェブ上であろうが、近づきたいと思う人などほとんどいないというのが、僕という人間の根本にある思考回路なのだろうとは思う。だから、SNS上の言葉を見ても似たような感情を抱くことになるのかもしれない。
 もっと言葉を交わしたいと思える人は、ほんとうにほんとうに貴重な存在なのだ。

 こうした僕のメンタリティーを、「結局のところ自分と同じような思考回路の人が好きってことだよね。それはつまるところ自己愛なんじゃないの?」と表現した人もいた。
 まあ、その通りなのだろうと思う。とはいえ、自己愛であるならそれで別に構わないというか、そうだとしても他人に対する反応や距離感などは何も変わるところがない。嫌なものはいやなのだ。
 お互いにビジネスライクに徹してくれれば何も問題はないのだが、そういう枷が外れやすい場面では、ほんのちょっとのところでも二度と会話したくなくレベルで距離をおきたくなる。極端な話、政治的指向性が異なるだけでも友人関係を作るのが困難に思えることがある。こういう態度があまり好ましいとは思わないのだが、そうなのだから仕方がない。
 なんというか、ビジネスライクな礼儀って重要なのだなあと思わざるを得ない。


 件の彼女との僕の違い。それはつまるところ、他者に対して受容する姿勢がどれだけあるかということなのだろう。それが、人脈の広さや友人の多寡につながっていくのかもしれない。あるいは、そもそも人間が好きなのかどうかという違いに帰着するのかもしれない。彼女はそもそも根本のところで人間が好きなのであり、だから同じ楽器をやる人に対しても好印象を持つのかもしれない。あるいは、この点に関しては、その人が女性であることも影響しているのかもしれない。もちろんしていないかもしれない。
 少なくとも、僕に真似ができないものであることは確かだ。

 僕に可能なことは、必要以上に自分自身に負担を与えないよう、きちんと他人と距離を保つこと。トラブルにならないよう、ビジネスライクな礼儀をきちんと守ること。それだけだ。
 無理をして人と仲良くなろうとしなくていい。無理をして人脈を広げようとしなくてもいい。そのような態度は自分の資質に反している。自分の資質に反していることをしようとしても、自分の精神を削るだけで、何の成果ももたらしはしない。


 きちんと、ひっそりと生きよう。分を弁えながら。


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