「好き」の無垢性という神話

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 SNSなどを見ていると、昨今は「その人の好きなものを否定するな」というのが基本的なマナーであるらしい。
 まあ、わからないでもない。自分の好きなものを否定されると嬉しくないのは確かだ。僕の大好きなChet Bakerをディスられると、「なんだこいつわかってないな」とか思うだろう。また、かつてとある知人のピアニストに、別の知人が「そんなピアニスト好きで追いかけてたって何も面白くないよ」と言ったという話を聞き、流石にそれは余計なお世話以外の何ものでもなかろうと思った記憶がある。かように、人の好みにいちいち口を挟むことがマナー違反になることは間違いない。

 ただ、昨今のSNSを見ている限り、そのマナーってそこまで声高に叫ばれるようなものなのか?という疑問も湧く。いや、繰り返すけれど、人の好みにいちいち文句つけることがマナーに反するであろうことは間違いない。けれど、その「マナー」の流布への強度というか敏感さというか、そういう部分に関しては、些かの過剰さを感じとってしまうのだ。
 これは個人的な印象に過ぎないのだけれど、「自分の好きなものは絶対であり無垢であり、あるいは正義であり、瑕疵がないものである」という意識がどうにも強すぎるのではないか、と思うことが多くなっている。あるいは、自身の内面を守ることに過敏になっているというか。


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 ちょっと別の角度から捉えてみたい。
 昨今は、何にも媒介されない直接的で自然なあり方をよしとみなす傾向が強い。そう僕は思っている。その結果、事後的に形成された考え方に基づく発想を嘘が混じっていると捉えたり、背後に別の意図を隠した発言を不当と見做したりすることになる。現実を観察する上で特定の視点を設定することは、恣意的な現実認識と見做される。誰かの発言が、完全な本音というよりその場に応じた配慮がなされたものだとわかった途端、その発言は「真意」を隠したものとして非難される。
 そう、心の奥底から自然に湧き上がる感情こそが、人間にとって最も貴重なものであり、人間にとっての真実に最も近いと認識されているのだ。

 だが、僕はそのような発想こそ疑わしいと思っている。そもそも、人間の感情が何にも媒介されないという意味で「自然」であるとは思わない。人間のものの感じかたは、その時代や地域で育まれる文化的な慣習に多くを依拠している。だから、時代によってものの感じ方は違うことがよくある。例えば、外見に関する美しさの規範は、時代によって変わっている。女性の身体のどこにエロスを感じるかも、その典型は時代によって脚だったり胸だったりと異なっている。
 人間の感情は、文化的側面を多く有するものだ。「自然」なものなどではない。

 あるいは、差別の意図がなければ差別ではないと思っている人も多い。このように考える背景には、「意図」や「意識」の中には、自分の外側に由来する混じり物などないという無意識的な前提がある。
 しかし、実際には、差別と呼ばれるものは「差別をしている」という意識でなされるものではない。むしろ、自分では正当と思っているケースが多いように思われる。差別意識というものは、我々の日常的な常識の中に深く埋め込まれているものだ。
 だから、実のところ、われわれの感情なんて自然でも無垢でもない。知らず知らずのうちに、その時代の差別意識だったりを組み込む形で構成されているものだ。感情はわれわれの内側から出てきた生のままの自然などではない。良くも悪くも、文化や慣習の中で育まれていくものだ。


 にもかかわらず、昨今は自然発生的に生まれた感情を、人間にとって自然で本質的なものと捉えがちであるように、僕には思える。そして、そうした感情の無垢性を疑わない姿勢が、「自分の好きを否定されたくない」という思いと連結しているのではないかと思っている。
 自分の内側から出てきた「好き」という感情は、内側から出てきたが故に無垢で不可侵であるのだから、誰からも侵されるべきではない。どこかでそのように考えているのではないかと思う。おそらくは無意識的に。


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 だが、すでに述べたように、感情は文化との関わりを通して形成される側面がある。決して「無垢」でも「自然」でもない。もしかしたら、その「好き」という感情には、差別や偏見のような部分が紛れ込んでいるかもしれない。「好き」を無垢で自然とみなす発想は、感情に潜んでいるかもしれないそうした負の側面を、覆い隠すことになってしまうかもしれない。
 また、自分の「好き」な対象も、同様に「自然」で「無垢」とは限らない。物事にはたいてい正否や陰陽の両面があるように、自分が「好き」である対象も全面的な「善」であるとは限らない。自分の好きなものが他人にとって不快極まりないものである可能性は常にある。それどころか、自分の好きなものが誰かを傷つけ損なってしまうことだってあり得る。僕の好きな音楽だって、真夜中に大音量でかけるのであれば、迷惑な騒音でしかないのだ。

 だから、「好き」という感情こそ、反省してみることが必要なのではないかと思っている。なぜそれが好きなのか、好きなものは自分にとってどのような意味があるのか、それがもつ負の部分とは一体何であるのか、そういったことを考えてみる必要があると思っている。それは、自分のものの考え方の限界を知ることにつながるのではないかと僕は思う。


 本来、「好き」という感情の持つ力として最も大きなものは、多少の負の部分を許せるということだと、僕は思っている。
 好きな相手は、多少の欠点がみえても許容できることが多い。嫌いな人は欠点が強調されて見えるけれども、好きな人は欠点を欠点として認識しなかったり、あるいは欠点だと思っても許容してしまえる。それはいい意味で強力な効果だと思う。これこそが「好き」の強みだ。

 けれど、許せるということは、欠点を無にできるということではない。あくまで気にしないでいられるということだ。ということは、それを好きでない人にとっては、欠点がよりクローズアップされて認識されることになるだろう。それは不自然でも不条理でもない。だから、誰かにとって「好き」なものが、別の人にとってはたとえようもないくらい「嫌い」であることは、十分に想定される事態だ。
 「嫌い」なだけであれば、互いに避ければ無問題。ただ、「実害」というレベルなるとそうはいかない。だから、僕は好きな音楽が騒音にならないよう心がける。いつ、どこで、どの程度音を出せるのか、きちんと考えたいと思っている。まあ、こちらの許容範囲を超える場合もあるかもしれないが。
 ともあれ、「好き」であれば全てが許されるかと言えば、そんなことはない。


 とはいえ、「好き」という感情を否定する必要はない。そもそもそんなことできるとも思わない。「好き」なものは「好き」でいいのだし、嫌いなものは嫌いでいい。さらに言えば、結局のところ「好き」という感情から行動が始まるのが、一番素直で妥当だという気もする。
 ただ、だからこそ、その「好き」が持つ利点だけでなく限界を意識しておく必要があると思うし、自分が抱く感情の意味を自分で理解しておくことは、他者に対する責任のようなものとして大切なのではないかとは思う。


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 だから、こう思う。
 「好き」の持つ「許せる」という側面は、大切なものだ。
 それは、欠点を欠点として認識した上で、その上で受容しようとすることだ。
 けれども、「好き」という感情は、無垢でも自然でもない。そこには危うさが潜んでいることさえありうる。だから、その感情をきちんと見据えることが必要だ。
 それがなされているならば、自分の好きな対象を全面的に肯定することもなければ、全面的に否定することもない。どうしようもない欠点を理解した上で、それを受容する方向へ向かうことができる。

 「好き」という感情は、そういう物事の多面性を受容する動機として活用していくべきだろうと、僕は思っている。

 


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