素人の玄人に対する目線

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 僕は人生のある時期から、自分の知識や技術で飯を食うことにした。

 それ以来、最も重要なことは、自分の食い扶持となる知識や技術をどれだけ高めるかであると思っていた。もう少し正確に言えば、それが最も重要であると思おうとした。
 その理由は、そもそも人脈を作ったり交渉をして相手を翻意させたりということが、とことんまで苦手だったから。もう本当にそういうのができなかった。そんな感じだったから、人間関係というより知識と技術で飯を食うという選択肢を取ることにした。ビジネス的な人間関係の構築がてんでダメだったからこそ、そうではない分野に注力しようと思ったわけだ。

 でも、今になって思う。どんなに優れた技術を持っていても、どんなに深い知識を持っていても、社会性のない人と一緒に何かをするのは困難だということを。
 もちろん、マネジメントに従事する人は、ちょっと癖のある才能ある人を上手く制御しつつ、その人の才能を上手くお金に変えて、自らだけでなくその人の食い物をも作り出すのかもしれない。それはすごいことだと思うし、大変な作業だなあと思う。けれども、さすがにそういうのは僕は無理。それどころか、才能や知識や技術があったとしても、人間として面倒な人とは極力関わりたくない。
 近年はどんどん、そういう指向性になっているような気もする。

 多分、僕が今仕事をできているのは、そして趣味の音楽の世界に片隅とはいえ存在を許されているのは、そこまで面倒な人間ではない——少なくともそう見せてはいない——からなのではないか。そんなふうに考えることさえある。
 尤も、実際には大層面倒な人間ではあるんだけどな、とも思うのだけれど。


2

 何らかのプロフェッショナルとして仕事をしている人(そもそも「プロフェッショナル」とは「その道で飯を食っている人」という意味だとは思うのだが)は、共通する特性を持っていると思っている。それは、「その人よりも低いレベルでしか技術や知識を持っていない人」に対して仕事を行う、ということだ。プロは、その技術を素人に提供することで、素人から対価をもらう立場なのだ。
 自らの知識や技術を職業にしている人は、原則としてその知識や技術に不案内な人が仕事の相手である。これが、あらゆるプロフェッショナルに共通する特徴であると僕は考えている。

 ちなみに、プロフェッショナルの持つ知識や技術は、同じプロフェッショナルから学ぶことがほとんどだろうと思う。彼らの技術や知識の研鑽はプロ同士の切磋琢磨を通して行われるのだ。
 そのため、先達の目線というものが生まれてくる。プロならではの目線なりこだりなり審美観なり、そういうものが彼らの技術や知識を測る目安となる。これを言い換えれば、プロはプロとしてのコミュニティーが生まれ、その内部で通用する規範や基準が生み出される、ということだろうか。

 だが、当然のことだが、彼らの商売相手はその道の素人である。素人は素人であるがゆえに、玄人の規範や基準を持っていない可能性が高い。そのため、玄人の仕事の判断を、玄人の規範や基準とは別の基準で行うことになる。
 ある種のプロフェッショナルにとっては、これはジレンマになることもあるように思う。目利きならではの判断とは違った選択が行われる。プロの間では評価が高い人物が売れない。専門家からすると危険な判断を好んだりする。素人は素人であるがゆえに、修練を積んだ玄人には到底納得のできない思考や行動をとってしまうことは、往々にしてありうることだ。

 しかしながら、玄人たるプロフェッショナルは、こういう人たちを相手に仕事をするのがいわばデフォルトなのである。プロフェッショナルは、原則として素人よりも高い知識と技術を持っている(あくまで「原則として」ではあるが)から、プロフッショナルとして仕事ができるのである。
 だから、玄人たるプロフェッショナルは、自らの立場において仕事を貫徹しようとするならば、自身の価値判断の基準や規範とは異なる階層と何らかの形で「和解」しなければならない。彼らは、自身の知識と技術の拠り所となる「玄人の基準」と、それを持たない「素人の基準」の、どちらにもアクセスできるようでなくてはならない。それが、玄人として仕事を行う上での条件ではないかと僕は思う。
 もちろん、それらをたとえば「クリエイター」と「マネージャー」という形で分業してもいい。それは合理的な判断であると思う。ただし、その場合も、「クリエイター」は自身の技術や知識が業務として成立するための条件を他者に委託していることは、知っておくべきではないかとは思う。


3

 僕にとって、端から見ていて気持ちのいいものではない人は、この「自分の技術や知識が業務として成立するための条件」を外注化していることに、果たして気づいているのか疑問に思える人なのだろう、そんなふうに思っている。
 実際につい最近目の当たりにした人は、一見それとは別の領域に思えたりもする。けれども、その「わがまま」(僕にはそう思えた)は、自身の技術を傘にきた「玄人ではない世界の基準」を無視した行いなのではないか。自分の持つ不快感を言語化するならは、そういうことなのだろうと今は思っている。

 そして、自分が色々なところで他者と関わる上で、自分の中で起きている変化も、そういうところに由来しているような気がしている。

 僕は、自分の知識や技術で生きているというより、それらを「業務」にするために必要なことを誰かにやってもらうことで生きている。
 それは間違ったことだと思わないし、合理的な分業だと思っている。けれども、自分の知識や技術を過信するあまり、「やってもらっている」という意識を忘れてはいけないのだ。
 そうなったら、それはただの暴力に過ぎないと思う。僕の持つ知識や技術は、それなりの力を持つ(だから金銭に交換されるし、それ以上のものにさえなりうると信じている)からこそ、その力を持たない「素人」によって制御されなければならない側面もある。もちろん、その制御内容の是非は問われなければならないが、制御そのものを否定することはあってはならないだろう。

 そして、このような考えは、趣味の音楽においても似たような形で現れてきているような気がしている。




p.s.
 これはついでだが。
 やっぱり、僕の前には現れないでくれ。お願いだ。
 届かないとは思うけれど、願わずにいられない。 

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