何かが違う

1

 ここのところ、極めて漠然とした「何かが違う」という思いに囚われている。
 何をやっても「これじゃない」という感覚がつきまとう。物事への対応だったり自分なりの方法だったりが、全て芯を食ってない感じ。間違っている、という印象ではない。けれども、どこかずれているような思いを拭えない。そんな思いをここのところずっと抱えている。あらゆる場面で、仕事と趣味とを問わず。

 その正体は、今のところ全くわからない。けれども、そう思ってしまう理由は、これまた漠然とだが、思い当たる節がある。
 それは、君がいないということだ。

 厳密には、今ここにはいないが、どこかにいる。どこかにはいるが、今ここには、僕の目の前にはいない。それが、どういうわけか、ありありとわかってしまう。そういうことなのではないか、と思っている。
 寂しい、というのとは違う。昔を懐かしんでいるというのとも違う。要するに、漠然とした違和感としか表現できない。でも、かつてはどこかにあったものが、今はない。そんな感じはするのだ。だから、そういう推測になる。
 その推測が正しいかどうかも、些か漠然としているのだけれど。


2

 一応、それなりの専門を持って仕事をしている身としては、僕が持っている専門性をきちんと評価してもらっているのかというのは、少なくとも僕にとっては重要なことである。それは、具体的には「報酬」という形に反映されるからだ。
 けれども、日々仕事をしていて、自分の評価はどれほどのものなのかということを問わずにいられないことがある。他の専門家の方々と比べて劣っていることはないのか。評価自体が適正になされているのか。さまざまな日常の仕事の中で、ついついそういうことに疑問を持ってしまう瞬間がある。

 それは、自分の能力や仕事の相手に対する不信に由来するわけではない。僕はある程度まで、自分の能力に自信を持っている。これまでにそれなりの蓄積を積みあげ、現在進行形での修練もしているつもりだ。もちろん、もっと優れた人がいることは、十二分に踏まえている。あくまで、非難される謂れはないという程度の自信、ということだ。
 それでも、ふとした瞬間に、なぜ僕はこの程度の評価なのか、と思ってしまうことがある。冷静に考えれば、どうにも思い上がった発想なのだけれど。
 あるいは、こう思ってしまう。自分には自信があるが、相手には本当に伝わっているのか。言葉にして説明することが難しいだろう相手要求を、適切に組みとることができているのか。
 いずれにしても、日々仕事をしていれば誰だって思うことだろう。相手の要求をうまく察知できているかリサーチしてみたりするのは、ごく普通の対応であるはずだ。でも、そんなことが、今の僕には過剰に気になってしまう。冷静になってみれば極々当たり前の感情が、今の僕には「囚われている」かのように受け止めてしまう。たったそれだけのことに、過敏になってしまっている。


 あるとき、ライブを終えて、僕個人の調子の悪さに心底げんなりしてしまったときにも、似たような心持ちになったような気がしている。
 不調だったことそれ自体は、極めて不本意ではあるものの、仕方ないことではある。練習すればいいだけのことだ。確かに、とってもとっても悔しかったが、次に向けて練習すればいいだけのことだ。いやまあ、今の共演者とは最後のライブになるかもしれなかったこともあって、そういう事情だからこそ残念な気持ちはいつも以上にあったのだけれど、幸いワンモアチャンスがあるらしいこととなったので、そこで精一杯演奏すればいいのだ。
 そうなのだが、妙に冷めた部分もある。それは、積み重ねた練習とその結果の結びつきが、本当にあるのか疑問に思えてきたことだ。

 練習は色々な目的でなされるものだと思うが、僕は主に「演奏体力」の向上が最優先課題となる。ライブを通して、きちんと楽曲を吹き切る力の向上、最低でもその維持だ。もちろん、課題はそれだけではないが、まずはそういったアスリート的な力を維持すべく、練習をしている。こういう地道な基礎訓練は劇的な効果は望めないが、それでも数ヶ月単位でみれば向上を実感できる。
 なのだが、何らかのきっかけでその蓄積が全て壊れるような体験を、ここ二年の間に三度ほどしている。その度に、再度一からの積み重ねを余儀なくされる。しかも、これまでの練習で重ねたことをもう一度繰り返すだけではダメで、ほとんど一から奏法を見直すレベルでの積み重ねが必要になってしまう。そう、重ねては壊れ、また重ねてはまた壊れ、その繰り返し。
 結果として、「演奏体力」は、年単位のスパンで見るならば、明らかに衰えている。音域的にも、3年前に出ていた音は出なくなった。かつてビッグバンドで吹いていた譜面は、もう吹けない。練習は何の積み重ねも残していないのだ。


 仕事に対するそれとは違う形で、音楽でも「何かが違う」と感じている。その内実は別なのかも知れないが、「何かが違う」という感覚自体は共通している。
 音楽の方は、「変わってしまった」というのが正解なのかも知れない。そして、その音楽に関する「変わってしまった」という感覚が、仕事に対する過敏さを生み出しているのかも知れない。
 それでも、共通することがあるような気がしている。それは「自分のなすべき方向性を見失っている」あるいは「自分が決めた方向性に対する自信を失っている」ということなのではないか。それが、「何かが違う」という漠然とした思いの正体なのではないかという気がしている。
 もちろん、それだけではないだろう。物事の原因は一つではないし、物事は複数の事象の複合体だ。けれども、今言ったことが、今の僕の精神状態ヲを形作るものの一つではあるだろうと思う。


3

 かつて、こうした部分を共有し得た人がいた。
 それは、「日常」や「生活」を共有していたのとは、少し違う。人生や生活とは異なる領域だが、人間として極めて重要な部分を、言葉として共有していたということだ。僕はこれを、「生活」と区別して「人間」の領域と呼んでいたことがある。ある人は「魂の部分で繋がっている」と言っていたが、それはおそらく僕が今言いたいことと近いのではないかと、今になってみて思う。
 君とは、この部分を共有していたのだと、僕は思っている。それは、他の人にはおそらくわからないだろうが、僕が生きる上ではものすごく重要なことだ。  

 アドバイスが欲しいのではない。解決策が欲しいのではない。保証が欲しいというのとも違う。もっといえば「共に生きる」のとも微妙に違う。存在を根底の部分で承認してもらっていた、ということに近いのではないだろうか。そのことが、「生きる」ということの根本を支えていたのだと思う。
 だからこそ、それがなくなったことで、いや、「なくなったことを認識せざるを得なくなった」ことで、現実を生きる上での前提が不安定になっているんじゃないだろうか。


 とはいえ、君は今、僕の目の前にはいない。いて欲しいとも思わない。
 君は、僕から極めて重要なものを奪って言った。「君という存在」を、だ。そんな君に対しては、もう恨むことしかできそうもない。

 だから、中途半端に僕の前に現れないでほしい。現実としてはもちろん、文字としても音としても、その存在を認識させないでほしい。
 僕から大切なものを奪っておきながら、僕が望んでも得られない大切なものを目の前にちらつかせるのはやめてほしい。
 こんな願いが届くとは思っていない。けれども、そう願わずにはいられない。これからも、ずっとずっと。それは、君が望んだことの裏返しなのだから。


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