受容とこだわり

 その昔、『団地ともお』という漫画がありまして。その作中では、小学生に人気の「スポーツ大佐」という漫画があるという設定になっておりました。柔道着を着た口髭を生やした正義の味方、スポーツ大佐が主人公です。『団地ともお』の主人公ではなく、その漫画内で流行っている漫画の主人公がスポーツ大佐です。面倒ですけど。スポーツ大佐はお供のカラスとクマとともに、悪をやっつける正義の味方なのです。団地に住む小学生たちにも大人気という設定でした。
 さて、『団地ともお』内の展開では、連載漫画「スポーツ大佐」はあるとき「就職編」なるステージに突入します。悪をやっつける正義の味方スポーツ大佐が、何故か突然サラリーマンになるという展開です。その結果として、小学生の人気は落ちる一方大人の読者が増えたというのが、ある回における『団地ともお』のあらすじだったわけですが、その「スポーツ大佐」の一部が、単行本の何巻だかの巻末おまけ漫画として描かれていました。

 主人公のスポーツ大佐はサラリーマンになったので、理不尽に対して戦うのではなく、頭を下げなくてはならないことが増えました。大佐はお供のカラスに、怒るべきところで怒らないのはただの怠慢ではないかと諭されます。
 大佐はカラスの正しさを認めた上で、「男が本当に怒るべきことは、一つあれば十分なのではないか。それが何かわかるまでは、全てを受け入れようと思う。そして本当に怒るべき時が見つかった時に、再び道着を着て戦うことにしたい」と、そんなふうに返します。なかなかかっこいいオチです。


 私も年をとって、こういう境地の意味が身体のレベルでわかるような気がしています。何も万事に尖らなくてもいいじゃん。そう思うことが増えた気がします。自分にかかる責任を自覚すればするほど、あらゆることに怒りを向けるだけの余裕がなくなっていったという側面もあるのでしょう。
 こういった心境は、よく言えば「削ぎ落とされた」のかもしれません。あるいは、「分を弁える」ようになったことであるかもしれません。
 けれども、もしかすると単に「視野が狭くなった」「事なかれ主義に堕した」だけなのかもしれません。スポーツ大佐のような、求道的な意志の帰結としてそうなったわけではなく、ただ単にだらしなくなっただけでもあるのかもしれません。

 だからこそ、一方で怒るべきときに怒れることはとても大切だと言えます。どんなに丸くなったとしても、いやだからこそ、譲ってはいけないラインはきちんと保っておく必要があります。
 ただ、それは情報に対して、あるいは情報を元にしてというより、身体というか実存というか、そういう部分を大切にしないといかんと強く思うようになりました。それは、情報を闇雲に集めることとは対照的なスタンスであるような気がします。
 この部分は、個人的にここ数年強く思うようになりました。リアルの知り合いの言動をみて、SNSなどで散見される言説を見て、その結果として思うことです。思想は身体性を伴ってこそ、なのだということです。もちろん、ただ身体性を伴っていればいいということではありませんが、それがない思想は空虚なのです。


 結果として、こんなふうに考えるようになりました。
 自分が何かにこだわりたいのであれば、そのこだわりは他人ではなく自分に向けるべきである。そして、そのこだわりの内容が普遍性を持っている必要は、必ずしもない。

 一見、それまでの内容と無関係に見えるかもしれせん。でも、私の中では繋がっているのです。
 あるいは、個人の内側に閉じた結論に映るかもしれません。ある意味では、それは正しいと思います。けれども、そこから始まらないといかんのです。それはゴールというより出発点なのです。

 そんなふうに生きられればいいなーと、思っているところです。


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